1. Home
  2. /
  3. インタビュー
  4. /
  5. 禅とは“下着”。ある意味、無節操 他宗教の信者も禅を学びに来る

本バカにつける薬 注目作家に聞く!

禅とは“下着”。ある意味、無節操 他宗教の信者も禅を学びに来る

<(人は)怒りの種を自分の頭や口で再生産している>。至言である。かように示唆深い禅の想念を、玄侑宗久氏は実体験をベースに都々逸(どどいつ)や俳句を引用しながら、時にアカデミックなアプローチを交え、手ほどきする。融通無碍(ゆうずうむげ)な解説に触れるにつれ、心がふっと軽くなる。そして禅僧たちの無邪気にも見える、折々の書を眺めていて勃然と思うのだ。禅っていいなあ、と。

同時に疑問もわく。「天国に行けるよう善行を積め」的な教えが一切ない禅は本当に宗教なのかと。玄侑氏は”家業”を継ぐことに反抗し、ナイトクラブのマネージャーなど職を転々とした末、生家の寺の副住職となる。その来歴ならではの(?)ふるった答が返ってきた――禅は下着です。


「人は何の指針も持たない、いわば、すっ裸の状態では暮らせません。何かしら着ます。ただ、キリスト教とイスラム教を重ね着するわけにはいかない。でも下着なら上に何でも着られます。実際、他宗教の信者が禅を学びに来ます」

ただし補正下着ではない。

「身体も1つの自然、それをコントロールしようという発想は西欧のもの。禅では、いかに自然に寄り添うかが人の力量だし、自然界で起こることには矛盾もなければ、よしあしもないと考えるんです」

運命に無心で従うことができれば、幸運も不運もない。禅はそう説く。だが、実践には骨が折れそうだ。

「いえ、自転車と同じでいったん乗れてしまえば、その技術は絶対忘れないし、苦労もなくなる、だいたい、”しなければ”と思うから仕事になって、ストレスがたまってくるんです。遊びにしてしまえばいい。心臓だって遊んでいるからこそ休まない。見上げたもんです。それに比べて脳のエラソーなこと(笑)。脳に振り回されてたまるか、というところが禅にはあります」

最近、評判ガタ落ちの日本だか、よき面を思い出させてくれるのも本書の特徴だ。

「外国から取り入れたものを何でも発展させてしまうのが日本のすごさですし、その無節操さは禅に通じます。日本人が無意識につけている下着、価値観には禅がすり込まれている。それを示すため俳句や都々逸を引用しました」


<流るるや紅葉一葉の浮き沈み>。大国の一元論に振り回されぬよう、本書を読んでしかとパンツをはこう。禅は急げ。

2006/01/17 アサヒ芸能掲載

タグ: , 禅語遊心