著者に聞く

心の力

芥川賞作家の禅宗僧侶と遺伝子の権威が「いのち」を語る異色の対談集。
宗教家が仏教の科学性を説き、科学者が信仰の重要性に改めて目を向ける。
ともに「経済と大義名分」による科学の暴走を危惧する。

経済は万能ではない

宗教家が科学を語り、科学者が信仰を語る。異色の対談ですね。

生命の根本に遺伝子を置く考え方は、仏教から見ても全く違和感がありません。それどころか、仏教は科学の方法論を超えたすごみを持っているんです。
 科学は自然現象の一部分を取り出して、範囲を限定し、条件を仮定してその中で起こる出来事を解析しますよね。仏教は「空」という言葉が表すように、常に全体とのかかわりを視野に入れながら、渾沌(カオス)にも意味を見いだしていく。「ご縁」という言葉はどなたでもご存じでしょう。
 例えば私たちが死んだ後、意識は瞬間的に消滅してしまうのでしょうか。私にはそうは思えないのです。物質を構成する最少単位の量子を瞬間移動させる実験は、既に成功しています。だとしたら、我々の死後、意識はどこかに移動するだけで、場を変えて存在しているのではないか。宇宙の塵でできている我々の体が、再び宇宙の塵に戻り、より大きな「宇宙意識」の中で存在し続けていくのではなかろうか。
 死は謎に満ちているのですから、すべてを説明することは到底できません。それでも、分からないことを切り捨てて物事を単純化するのではなくて、全体とのかかわりの中で物事を捉えていく仏教の考え方は、現代の科学にはない可能性を秘めているんですね。

「経済原理」と「大義名分」で科学が暴走することに、宗教者と科学者の立場を超えて警鐘を鳴らしておられます。

かつて研究の対象だった遺伝子は、今や早くも「利用する」段階に入ってきています。そこに「あらゆることをお金で解決できる」というむき出しの経済原理が加わったなら、いったい何が起こるのでしょう。
 科学の進歩を否定するのではありません。しかし、臓器移植にも「値段」があるのは事実ですし、いのちさえお金で買える風潮が蔓延していけば、人間を「役に立つか立たないか」という浅薄な有用性だけで判断する過ちを犯してしまうのではないでしょうか。
 お金があって、社会に有用らしき人物だけが高度な科学によって長寿を手に入れる。実に怖い話です。そんな事態に陥る前に、宗教の側からも発言していかなければなりません。仏教界では、盛永宗興老師(故人)が科学界との対話で先達の役割を担われました。「ES細胞(胚性幹細胞)を使えばパーキンソン病が治る」といった大義名分の下、結局は経済原理だけの議論が横行するのに歯止めをかける意味でも、今こそ宗教界は積極的にかかわっていくべきだと思います。

暴走する危険をはらんでいるのは、科学よりも経済なのかもしれません。

小学生に働く意味を教える前に、株式投資のノウハウを教え込む。立ち止まっていては国際競争に勝ち抜けないというグローバリズムの大義名分で、弱い者や小さい者の切り捨てを正当化してしまう。おかしな話です。お金など人間が作り出した虚構に過ぎないのに、その虚構に人間が縛られて、振り回されてしまうんですね。
 「無用の用」という言葉はご存じでしょうか。一見すると役に立っていないように見えるものが、実は大切な役割を果たしていることがある。現実の世の中だって同じことでしょう。
 構造改革という美名の下に、「無用」を切り捨てる政治が改まらない限り、日本は誤った方向に進んでしまうような気がしてなりません。

2006/07/10 日経ビジネス掲載

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