「三春索麺(そうめん)」という特産品がありましてね。江戸時代には幕府の将軍に献上されていたほどです。ここ、福島県三春町にはそのころ、修験道も含めてお寺が32もあった。多くの修行僧に供されていたようです。
めんさえあれば比較的手軽に作れるから、重宝されたのでしょう。稲庭うどんのように平らで太め。一時すたれはしましたが、20年ほど前に有志の手で復活しました。私はクルミ汁で食べるのが好きです。
でもね、子供のころはそうめんを見るのも嫌でした。実家は鎌倉時代末期の1332年に創建された禅寺。なぜかお中元に贈られるのはうどんやそうめんが多いのです。日持ちするからでしょう。夏ともなれば、夕食は毎日そうめんばかりだったんですよ。うんざりもします。
それが27歳の時、京都の天龍寺に入門した時に変わった。禅道場では好き嫌いを言っていられないのです。摂心という修行期間には睡眠が4時間もとれない。むろん性欲もわかず、旺盛なのは食欲だけ。肉も魚もなく、日常のたんぱく源が豆腐だけですから、めん類はごちそうですよ。
それまでは嫌いだったのに、たちまち好きになりました。めん類は消化がよく、大量に食べることができる点も良かったですね。いつも腹八分ではどんどん胃が小さくなるでしょ。これは胃の能力を低下させます。時には腹いっぱい、食べるのがいいんですね。
禅道場では衣食住のすべてを大切にします。すべてにおいて、細かく型が決まっていることが多く、最初は競争みたいに緊張の連続ですよ。しかし慣れてくると、面白くなってくる。精神が自由になるというんでしょうか。今の日本人はその大切さを忘れてしまっているような気がしますね。
世の中にはすべてを測れる物差しなどないはずです。けれども、子供たちを便宜上測っている物差しが、今は絶対化している。そして、いかに「勝ち組」になるかということだけにきゅうきゅうとしている「負け組」にならないため、息抜きなどは許されない。
禅道場では坐禅(ざぜん)だけでなく、食事の際にも音を立てることはご法度です。音は仲間の禅定を妨げる。けっして他の雲水の修行の妨げをしてはいけないのです。困ったのはたくあん。口に入れたままに食堂を出て、トイレの裏なんかでかみくだす雲水もいましたよ。
ところが、うどんやそうめんだけは例外だったんです。これはむしろ、大きな音を立てないといけない食べ物でした。ズルズルッと音を立てられるだけでうれしいし、うまかったですね。きっとあれでストレスもずいぶん、解消されてたんでしょうね。
人はメリハリがなくてはやっていけません。カリカリに気を張っているばかりでは切れてしまう。それを今の日本人には思い出してほしい。妙な気を使わないで、そうめんは威勢よく音をたてましょうよ。
2006/08/29 毎日新聞掲載