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禅的生活のススメ

作家であり、臨済宗妙心寺派の僧侶でもある玄侑宗久氏。氏に坐禅とはいかなるものかを伺った。するとその心は、感覚しても知覚しない、“三味(さんまい)”にこそ意味があるのだと答えられた。

坐禅の境地、三昧を体感する

 「坐禅をやるならば、きちんと禅寺に行って指導を受けたほうが良いです。自分の姿勢って、自分ではなかなか気付けないですから」。自宅でできる坐禅について玄侑氏に伺ったところ、返ってきた答がこれだった。「本などを見て、自分で坐禅を組んでみる人も多いようですけど、熟練者にはやっぱりひと目でわかります。どこがどうおかしいかって。それは自分で考えてもわからない。一度、変なクセがついてしまうと直すのも難儀です」。ならば、坐禅を組むという行為は常日頃、修行に励んでいない我々とは異なる世界にあるものなのだろうか。
 「般若心経の中に、色・受・想・行・識からなる五蘊(ごうん)という考え方があるんです。“色”は物質的なモノのこと。“受”は感受すること、感覚ですね。感受したことを心に想うのが“想”。これが知覚です。知覚しなければ、意志を示す“行”や、認識にあたる“識”にまで及ばない。坐禅って、実は自分の頭の中を“受”から先に進ませない状態にすることを指すんです。感受するのはいいんですけど、それについて何らの判断も加えない。聞こえたら聞こえたまま、見えたら見えたままというところに自分を置いておく。それが坐禅状態というわけですね。私は“うすらぼんやり”って言葉で表現したりしてますが、脳の前頭前野にある“私”という自己に、簡単に言ってしまえば、おとなしくしてもらおうっていうのが坐禅。そいつが働かないような状態に頭の中を持っていこうということなんです」

イメージ呼吸と読経で坐禅状態を作る

 脳波の状態でいうと、アルファ波や、最近の研究ではシータ波も出ているとされる、その状態を“三昧”という。坐禅という姿勢そのものにひとりで挑むのは難しいが、そうした三昧の状態に、自分を持っていく方法はあると玄侑氏は語った。「知覚しない、言葉を思い浮かべない、ウーンって言ってやる坐禅は、その道のプロフェッショナルがとる方法。わざわざ難しい方法でやってるんですね。映像か、もしくは音を使って、初めからそれに身を委ねてしまえば、初心者でも言葉はすぐに浮かばなくなる。三昧の状態が体感できるんです」。
 そうした方法のひとつにイメージ呼吸がある。「私がおすすめしたいのは、吸い込んだ息が、たとえば手先まで運ばれてきているというイメージを持つ呼吸法。意識をそこまで動かしてやれば、自然と手先が温かくなるのを感じるはずです。これ、不思議なことで、実際にそこまで酸素が来てるとしか思えない。」吸い込む息を映像として具体的にイメージしながら呼吸する。それが玄侑氏の言うイメージ呼吸なのだ。
 「意識と身体は一緒になりたいものなんです。だから、意識をどう動かすかっていうのは非常に重大。呼吸をするときは、実際にある身体の輪郭よりももっと大きい身体をイメージして下さい。少なくとも両手が届くぐらいの範囲。その大きな身体の輪郭の外側にある空気を、まずは脳天から吸い込むようイメージして下さい。吸い込んだ息は、臍下三寸ぐらいのところ、その一点に収める。意識っていうのは一点に持っていかないと効率的に集中できませんから、このあたりではなく、この一点です。そして、その息が地に抜けていくイメージで吐き出します。天から入って、臍下の一点に入って、そうして大地に抜けていくイメージ。次の呼吸は大地から。大地から吸いあげて臍下の一点にいったん入って、脳天に抜けていくイメージ。最後は天と地、両方から入ってきて、臍下一点に収まる。そうして、その息が全方向に発散されていくというイメージで呼吸してみましょう。そうした呼吸を繰り返すことで、言葉を必要としない三昧の状態を作り出すことができるのです。だから言葉に置き換えてはだめ。映像的なイメージを抱かないと。瞬間ごとの映像に意識を集中し続けるわけです」。
 玄侑氏がすすめてくれたもうひとつの方法が、般若心経の読経だ。「三昧の状態を音の力を使って作り出すのが読経。この場合は暗記してないとだめですけど。文字を見ながらでは、やっぱり言語脳が働いてしまい、脳波もベータ波になる。暗記してしまっているものを再生している状態はほとんど完全にアルファ波になるんです。般若心経は覚えるのにちょうどいい長さ。タイトルを除いて262文字です。ゆっくり読んでも7分ぐらいでしょうか。覚えて慣れてきたら、今度は般若心経を読んでいる間に息継ぎを2回とか、呼吸数も決めて秒読みに挑戦するわけです」。般若心経を唱えることで三昧の状態を作るのだ。「なぜなら、自分の声にこれほど耳を傾けてる状態はないですから。うっかり考えると必ず間違える、これは間違いのないこと。物を考えない時間をわざわざ作ろうというときに、お経ほど便利なものはないんです」。

イメージ呼吸のポイント

「三昧」の境地を体感する「イメージ呼吸」。ポイントは流動する映像をしっかりと頭の中に描くことにある。考えるのではなく感じながら――。生まれ変わる自分がそこにいる。

  1. 肩に力が入らない姿勢を作ることが大切。これは坐禅の際の基本的な手の組み方だが、玄侑さんは力を入れても肩が固まらないよう、小指と小指をからめ、軽く握って、坐禅を組むことが多いのだという。
  2. 「自分の身体を大きなひとつの器と見なすんです。そうすれば呼吸の際に、息を込める中心点もイメージしやすいでしょう」。腰は下に落ち込まないようにグッと立てて呼吸する。
  3. 吸った息を溜めるのは臍下三寸のところ。オヘソから3寸(約10センチ)ほど下にある一点だ。皮膚の表面ではなく身体の中心部をイメージして、入ってきた息をグッとそこに込める。
  4. 「身体が接触して体重がかかっている部分に意識を持っていけば、どんな姿勢でも疲れないんです」。と玄侑さん。座っていても、ソファに横になっていても、そうすれば同じように疲れない。

時間の二重構造を体感する三昧の効用

 三昧の状態を体感することで得られるのは、もうひとつの時間だ。我々が日常、感じている継続する時間とは異なる、その時間を玄侑氏は“粒子的な時間”と言った。「道元禅師は粒子的な今を、而今(にこん)と言いました。それは、繋げても歴史にならない、要するに流れていない時間のこと。何かに三昧になっていると、必ず而今という時間が訪れる。それは、体験してしまうと忘れられない時間になるんです。今という時間を我々は、人生という波動のような流れの中で捉えていますが、そういう時間というのは実は、残らない。忘れられない時間というのは、流れなかった時間の中にこそあるものなのです。流れない時間は“受”から“想”へ進まない状態です。知覚してしまったら、何でも全部“私”という自己のカレンダーに収まってしまいます。もしも人生が波動のような時間だけなのだとしたら、本当にもったいないと思うんです。時間の二重構造があるからこそ、私たちはすごく豊かに今を生きているわけです」。 
 最後に玄侑氏はこう付け加えた。「子供の頃っていうのは、実は粒子的な時間が多いんです。人生の流れの中、なんて子供は決して考えないでしょう? ただ楽しくて子供は遊んでいるわけですから。ところが、大人になるとひとつの行動に目的とか、理由を求めるようになってしまう。そうなると自分でやらずに人に頼もうかという発想も生まれてくる。本来、生活の時間とはそういうものでなく、すべて自分でやるべきことなんです。自分でやらなきゃならないんだから、それは楽しまなくちゃしょうがない。別な言い方をすれば、子供のように没頭して遊べってことなんです。イメージ呼吸も読経も、坐禅もそうですけど、結局それらが遊びになっちゃえばいいんですけどね」

2006/09/28 助六掲載

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