特集 スピリチュアルって何?

個性を強要される現代人を引き込む「蜜」

守護霊、前世療法、占星術――。オウム真理教事件の風化とともに、再び神秘世界に引き込まれる現代人が急増している。この非科学的な世界の魅力とは何か。その心を繙く。

科学の進歩になじむ霊

 ここ数年、人々が霊的な存在に関心を持ち始めていると実感している。既存の三大宗教などとは違うポジションを取り、霊を語り、癒しを与えるスピリチュアル・カウンセラーが続々と登場し、人気を博しているようだ。作家の五木寛之さんと宗教哲学者である鎌田東二さんの対談集『霊の発見』も売れている。わたし自身、マスコミ関係者から、こうしたスピリチュアル業界の著名人と対談する依頼も数多く舞い込むようになった。
 なぜ、霊、もしくは霊能者への関心が高まっているのか。わたしは、この傾向は、科学技術の進歩と相俟っていると思っている。たとえば、今、世界のいたるところにあらゆる電波が飛んでいる。しかし、それは受信機がなければ何も見えないし、聞こえない。ところがひとたびラジオやテレビなどの受信機を設置し、スイッチをひねれば、それらはたちどころに音や映像として目の前に立ち上がる。今、この机の上にパソコンを広げ、インターネットにアクセスできる環境を整えれば、われわれは途端に情報の海の中に漕ぎ出すことになる。見えないけれど、確かにある――という感覚は、現代の人々の共通認識になりつつある。実はこれは霊の世界に酷似している。
 あらゆる不思議な現象に名づける文化は昔からあったが、科学は名づけるだけでなく理論づけてきた。要するに、科学技術の進歩は、不可視のものをあぶり出し、人々が霊魂の存在を信じる素地を皮肉にも形成していったのだと思う。今、霊能者が注目を集めるということと、科学技術の進歩というこの二極の現象は、人間の心理的な関係において、決して齟齬をきたすことがない。矛盾がないのだ。
 インターネットの上の掲示板「2ちゃんねる」や、ブログなどに見られる無記名の誹謗中傷など、悪霊そのものだと考えても何ら違和感がないのではないか。
 殊に近年、科学という学問自体が、目に見えないものを対象にし始めていることにも関係があるだろう。素粒子物理学などが分かりやすい例だが、見えない粒子や波動という不可視のものが科学分野で語られるということも、霊を語るうえでは好都合となるはずだ。スピリチュアルと分類される霊能者などは、背後霊や守護霊を科学的な真理を語るような口調で「いる」と断じてみせる。それを人々が「いるのだ」と納得してしまう背景には、科学が見えないものを名づけて論じるのと似た構図があると思う。
 しかし、いかに科学が進歩しようとも、永遠に残る謎というのがある。それが前世であり輪廻なのだ。だから、大半の霊能者の話はここに集中する。今も昔も、この点は変わらない。
 不思議な現象というものは確かに起こりうるだろう。幽霊も出るであろう。わたし自身、何度も科学では説明できない不思議な体験をしている。こうした超常現象があること、遭遇することをわたしは否定しない。しかし、この超常現象については、あまり名づけすぎないことが大事なのである。語ることが神を冒瀆することになる――としたのが古来の日本の神道なのだ。
 一方、今、流行しているスピリチュアル、つまり、前世や守護霊などを語る霊能者は、あらゆる超常現象にあれこれと名前をつけて説明し、納得させようとする。しかも、あたかも神のような断言口調だ。この点が、最も大きな特徴の一つであり、また、神道、仏教などとの違いだと思う。分からないことを分からないままにさせておかないというありように、宗教者としてはきわめて強い違和感を覚える。

「言挙げせざるの教え」

 アルカイック・レリジョンとしてくくられる原始的な宗教には、そもそも、安易なシンボリズムを警戒する意識が存在する。神道などはこの代表格であり、徹底的に言葉で説明することを避け、体系的な教義・経典すら存在していない。語ることは神を冒涜(ぼうとく)※し、全体性を壊すことにあたると考える「言挙げせざるの教え」なのだ。
 神道では、我々が感知することのできない世界から、我々の世界への何らかの神の啓示を「おとずれ」と表現する。何かの音の表象があるということだが、音そのものは意味を持たないから、それによって、全体性を崩したりはしない。
 また、神道の説く「やほよろづの神」というのも、同様に全体性を壊さない。地上にあるすべてのものに神が宿り、全体性というものを象徴的に神と呼んでいるわけだから、なにか絶対的な神というフィクションを作り出さないで済むし、たとえ、何か不思議な超常現象があったとしても、その現象自体に名前を与える必要も生じない。すべてに神が宿るのだから、それ以上、一つの現象にひきずられることもなく、全体性を保つことができる。これが神道の教えの中核にあることを指摘しておきたい。
 一方、仏教の方は、組織化する過程において理論化し、また大衆化する過程で、フィクション作りに力をおいてきた側面があることは否定できない、世界的に信者を得ている宗教には、たいていの場合、大いなる虚構を創り出し、それを信じるように促す傾向がある。形のないものに形を与え、言葉で説明すれば、布教活動を進めるうえで大きな効果を上げるからだ。しかし、仏教の場合、その虚構は、信者本人が自分自身の人生について考えるためのものであるという考え方が根本には存在している。
 仏教の開祖であるブッダは確かに実在した。しかし、礼拝の対象として作られた無数の仏像は、人間の創造物に過ぎない。そして、こうした仏像はすべて人間の心に還元できる。たとえば「阿弥陀如来」は、人間が最大限に能力を発揮し、光り輝いている様を表現したものだ。自分の命を正しく働かせることによって、人の病をも治すことができる状態を「薬師如来」と表現し、さまざまな表情で、その場その場で立ち現れてくる応病与薬、臨機応変な人間のありようを「観音様」とした。仏像は、人間が最大限に能力を開花した時のバラエティーとして表現されたシンボルであり、フィクションなのだ。
 衆生が善悪の業によって赴き住む六つの迷界、即ち、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天」も、迷いと悟りの世界を分類した十界も、人間の心のありようを分りやすく表現したフィクションである。だから、僧侶は、絶えず、「これらは虚構である」「これは、あなた自身である」と説かなければならない。そして、信者は自分自身の人生について思索しなくてはならないのだ。
 しかし、こうした説法は、すべての信者に受け容れられるわけではない。わたしなども日々、信者さんと向かい合う中では、「阿弥陀様ですね。ありがたいですね」と手を合わせてみて、終わらせることも多々ある。
 こうして、阿弥陀如来や薬師如来像は、あたかも実在するキャラクターのように一人歩きを始めてしまったのが現状だ。名前をつけると、現象は立ち上がる。あたかも、実在するかのように。だから危険なのだ。ただ、それは本来の仏教の教えではないことを確認しておきたい。

分からないものに名づける危険

 神、仏の世界というものは、二つに分かれるものだろう。一つは、物理的に計り知れない世界があるから、そこに、神、仏が存在するという考え方。もうひとつは、ユング心理学がベースになるのだが、われわれの深層真理に、人類の蓄積した集合的な無意識が存在し、ここに神仏が存在するという立場だ。
 白隠禅師なども、深い禅定に入った時には、さまざまな不思議な現象が起こると言っているのだが、それが、外から入る情報があるために何か不思議なものが見えるのか、それとも集合的な無意識の問題であり、自分の心が見せているだけのことなのか、判然としないと語っている。
 わたしは、その両方のことが相埃って、不思議な現象が起こるのだと考えている。
 科学は合理的であることになっているが、それだって、虚構にすぎないことを思い出してほしい。たとえば、わたしたちは時計を使って秩序を保って生きているが、地面を這っているミミズには、まったく違う時間があることは容易に想像できるだろう。要するに、時間などというものもわれわれが生み出したスケールに過ぎない。だから個人個人は、状況によって特殊な時間の伸び縮みを体験するのだ。時計の時間を生きるということだって、科学の仮定を「ある」と信仰するからこそ、なせる業であるのと同様に、幽霊がいるという信心のあるところには、幽霊は見えやすくなる。不思議な体験はありうるのだ。ただ、それに予め決まった意味があるかのように断言する行為は厳に慎むべきだと思っている。
 では、守護霊や前世を言い当てるスピリチュアルとは何なのか。説明した通り、霊能力のある人が不思議な体験をすることについては否定しない。しかし、分かりようのない不思議な事象にすべて名前をつけて、言語で説明するという手法には問題があると思っている。スピリチュアルと分類されるものは多岐にわたるので、とてもすべてを把握しきれないのだが、少なくとも、人が生まれる前、死んだ後、そうした事柄を取り込んで、人生のすべてを因果律で語ろうとする類のものには、こうした共通の手法が存在する。
 人間は因果で語られることに大変に弱い。千変万化する自分を前世との因果律で説明できるなら、実人生を引き受ける覚悟から逃避することもできるからだ。人生の障害は自分のせいではないと思うことができれば、さぞ、すっきりするに違いない。しかし、それができないのが人生の面白さであるはずだし、また、そうでなくてはならないとも思う。この点が仏教などとは大きく異なる。
 もちろん、輪廻転生はインドの宗教に共通の教義であり、ブッダは輪廻を肯定している。ただ、輪廻を断ち切る方法があるとして、解脱することの必要性を説いたのだ。こういう教えである以上、自身の人生を生きることだけに焦点を絞る。だから辛くもある。スピリチュアルのこうした“手法”は、人間にとって「蜜」と表現すれば適当だろうか。いや、結局は「毒」かもしれない。

西洋的な人間観がベース

 前世、守護霊などを持ち出すので、スピリチュアルというものを儒教や仏教に近いと思っている人が多いようだ。しかし、スピリチュアル・カウンセラーとして最も注目を集めている江原啓之さんの“教義”を繙くと、むしろ西洋的な人間観をベースにしているように思う。
 西洋の人間観は、人間はそれぞれ神様からいただいたペルソナ、つまり個性(パーソナリティー)があるというところからスタートしている。だから、個人個人はどういう人間であるかが決まっているとされている。
 江原氏は、われわれの中に神から宿った神性があるという。けれど、その神性が何らかの形で曇っている場合があり、これを助けてくれるのが守護霊であり、妨げているのが因縁霊や地縛霊であるという。これは、キリスト教が説くペルソナをベースにした考え方ではないだろうか。
 江原氏によれば、人間にもヒエラルキーの階段があって、神が最も高級なものであると規定している。そこに近づくために、わたしたちは努力をしましょうと説く。低級な自分であると、低級霊が憑衣すると言うのだ。この進歩観も、明らかに西洋的な人間観に基づくものだと思われる。
 対する、神道や仏教の人間認識はそうではない。神道の場合、前述したように人間の中にもやおよろずの神がいるから、やおよろずの心がわれわれの中にあり、一人の人間はいかようにも変化すると考えている。仏教もそうだ。六道、十界をめぐるというのは、わたしたち人間が、縁に応じてさまざまに発現するという認識を表現しているのだ。同じ一人の人が修羅のようになる時もあれば、仏様のようにもなる。千変万化するものだと受け止めている。ここが江原氏の説くスピリチュアルの人間観と違っている。
 今、江原氏の人気が高い理由は、むろん人間的に魅力があるからなのだろうが、日本人の人間観が西洋化したこともあるような気がする。

個性教育の疲れに効く

 また、一方で、個性を大事にするべきだ――という西洋的な思想の押し付けに日本人が疲れたことにも、スピリチュアルの人気の理由はあると思っている。
 日本が個性を大切にする教育を導入したのは昭和四十年代だろうか。今では、子供たちは早い時期から、「わたしはこういう人だ」というラベリングが要求される時代になっている。これは、かなり毎日を生きにくくするのではないかと思っている。発現されない自己、発現されない無意識層が多くなるからだ。
 毎日の中で、わたしはさまざまな自分を生きている。たとえば、草むしりをする自分、お経をあげる自分、コンピューターに向かって文章を書いている自分というのは、すべてばらばらのキャラクターである。寝ている時と起きている時は、まったく違う自分だ。そして前述の通り、仏教や神道は人間が千変万化することをまったく否定していない。だから、それらの自分を取り立ててばらばらだと感じることもない。より多くの自分が「日の目を見ている」と表現してもいい。
 ところが、西洋の人間観では、この人はこういう人であるというキャラクターがあることになっているから、自分らしくないことをしている自分は、「生きていない自分」ということになる危険がある。ラベル以外の自分は、いわば、水子のようなものにあたるのだろうか。
 こうして現代人は、生きていない自分、この世の中に出て来られない自分をたくさん抱えてしまい、途方に暮れてしまったのかもしれない。自分らしい自分以外は、日の目を見られないとなれば、それ以外の自分を生きるのは大変に苦しくなるに違いない。発現できない自己が増えているとはこういう意味だ。
 では、スピリチュアルはこうした現代的な苦しみにどう対処しているかといえば、この統合できないあらゆる自分を、守護霊や地縛霊、悪霊、背後霊などあらゆる霊を用いて語ることで、自分らしくない自分もすべて理屈立てて統合してしまう。これはすっきりするに違いない。ここにも人気の秘密があるのではないか。
 ただ、これは自分そのものが不思議な存在であるということを感じることを阻害する語り方だということは指摘しておきたい。
 今、スピリチュアルの大半の消費者が三十代の女性と聞いている。個性教育が導入された最初の世代だったはずだが、この一致を関係づけるのは牽強付会に過ぎるだろうか。
 日本ではこの西洋的な人間形成はもはや常識となっている。だから、どんな人でも一旦は、この西洋的な人格形成を目指すことになる。このまま個性信仰が続けば、人々はあらゆる自身の側面を統合し、語ってくれるスピリチュアルのようなもので補い続けるしかないのかもしれない。

破綻しにくい霊能者の立ち位置

 江原さんなどの本を読むと、既存の宗教は人間の手で作ったものであり、自身はあらゆる宗教を超えた神について説明するという立場を取っている。こちらに言わせれば、イギリス心霊学色の強い、単なる個人の見解としか思えない。
 しかしながら、その部分を抜きにすれば、江原氏をはじめとする霊能者というのは、なんとも破綻しにくいポジションに身を置いており、半ば感心してしまう。霊能者は「見えない人にはわからないが、確かにいる」と断言する。わたしにとっては、決して面白い話ではないのだが、見えない人には見えないのだから、批判のしようもないではないか。
 また「守護霊」がいる「前世が見える」と語りながらも、結論としては「先祖を大事にしましょう」というところを落としどころにする霊能者も多く、これもうまい手だと思っている。なぜなら、たいていの日本人の墓は仏教式であり、この“教え”に従えば、寺に墓参に来ることになるからだ、決して、仏教を敵にしない。
 それだけではない。教えの中には神道も取り入れているので、神道側も抗議できない繊細な作りになっている。しかも、カウンセラーとしては一流の人も多いから、そうした教義があまり検討されない。
 実は、スピリチュアルのブームに乗って、禅に興味を持つ人の裾野が広くなっているという事実もある。多くの禅寺では、定期的に、一般市民も対象にした坐禅会を開いているのだが、これがすこぶる盛況らしい、禅は徹底して名づけを拒絶する宗教なのだが、黙って坐っている人が霊を見ようと思っているなら本末転倒というものだ。
 名づけようのない、身心を統括する主体こそ本体の「霊性」というものだ。

2006/11/10 中央公論掲載

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