ミドルは素敵な世代

自分の輝いていない部分を見いだすことが旅 その目覚めを大切にしたい

福聚寺(ふくじゅうじ)の副住職として忙しい寺務をこなしながら、作家としても活躍中の玄侑氏に、旅の魅力と「ミドル世代」の自分らしい生き方について語っていただいた。

「旅」という言葉にどのようなイメージを持たれていますか。

旅とは、日常性からの旅立ちだと思います。それはどこか遠くへ行くことではありません。私の場合は、お経を唱えたり庭掃除をしたりという僧侶としての生活の中に、日常性からの旅立ちがありますので、ここに居ながらにして旅をしているわけです。

日常性からの旅立ちとは具体的にどのようなことでしょうか。

ロジカル(論理的)な頭が働いていない、ということです。
 あまりの美しさに出合ったとき、驚いたときに、「ハッ」として茫然自失の状態になることがありますね。そのような”時間が流れていない感覚”が非日常です。皆さんの生活の中にもきっとそういう出合いがあると思います。しかし、気付けないでいるだけなのです。そうであれば、どこかへ移動する「旅」というかたちで日常性から旅立つのは、よい方法かもしれません。

私たちが「旅」と言っているのは、時間に追われてばかりのもので、本来の旅とは言えませんね。

日本人は特にそうでしょうね。計画に沿って、その実現のための旅行です。その中に少しでも行き当たりバッタリさというか、状況次第でどうしてもいい時間をとらないと、ふだんの仕事と一緒になってしまいます。
 旅は、「観光」という言葉でも表現されます。自分の中のまだ輝いていない部分が輝くのを観ることです。それは、まだ表現できていない自分です。自分の中に眠っているものを目覚めさせるということです。

いつもの旅行で、そうした「旅」を見いだすことはできますか。

たとえば仏像を観ても、単に有名な名前をなぞっているようでは面白くありません。
 京都・清水寺の十一面観音像があります。その顔をよく観ると、怒ったり大笑いしたりいろいろありますが、その全部の顔が自分自身の顔なんです。まだ自分には目覚めていない部分があることがわかります。だから、ある種の貴い感情が湧くのでしょう。これは一例ですが、そのようなことを感じるのが旅だと思います。
 目的外の重大なことが起こったときに、目的なんかどうでもよくなるような経験をすることが本来の旅でしょうね。

玄侑さんご自身の、これまでに印象に残っている旅を教えてください。

中学2年の夏休みの終わりの、初めての家出は忘れられません。只見(ただみ)線に乗って新潟に行きました。見ず知らずのお寺に泊めてもらいました。お寺から家出してお寺にすがる、というのも情けないですが……。
 そのころは、将来、坊さんにはなりたくないと悩んでいたんです。家出しても何も解決しませんでしたが、そのときに初めて詩らしきものを書いたのを覚えています。

これから行ってみたい所はありますか。

出羽三山を巡ってみたいですね。昔からの聖地ですから、その場に立つだけで何か感じるものがあると思います。

最後に、ミドル世代の方々へ、これから自分らしく生きるためのメッセージをいただけますか。

落語に出てくる「寿限無(じゅげむ)」や、お経の「般若心経」など、長めの”音”を覚えてはいかがですか。
 戦後の文化は、人間は考える生き物であるとして、考えることを立派なことであるとしてきました。そして丸暗記をバカにしてきた。しかし、人間は黙っていても考えているんです。まあ、ろくなことを考えませんがね(笑)。それよりも、ハッキリ覚醒しているのに、考えていないという時間を作ることが大切です。座禅というのはそういう文化です。わざわざそういう時間を作るために座禅をしているのです。
 それは座禅でなくても、長い文章を暗記してそれを暗唱する時間はそういう時間になるんです。その間、ともかく何も考えていない時間ができる……、考えると間違えますからね。
 現代人はそういう時間をあまりにも持たずにきた。知識とか思考するということを大事に考えすぎてきた、ということです。
 まだ輝かないでいる私の中の光というのは、おそらく、思考していないときに観ることができるのではないでしょうか。

2006/12/10 大人の休日倶楽部掲載

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