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編集長インタビュー

仏教的立場から見れば この世とは無常の時間であり、不透明であって当然なのです

巻頭ポエム 雇われないで生きていく

仏教では、「現在」を生き切ることが大切だと考える。
今をきちんと生きないことは怠慢なのである。
だが、多くの人たちは過去や未来に現在を従属させている。

将来のための準備だといって、
現在を費やし、ないがしろにする。
だがその「将来」は確かなものではなく、
不透明なのである。

「明日」だってその例外ではない。
将来のために現在を売り渡していれば、
人間はどんどん苦しくなっていく。

世の中とは不透明なものである。
その前提を忘れずにいれば、
あなたも、もっと楽に生きられる。

雇われない生き方を目指す『アントレ』読者へ、日本を代表する著名人からのメッセージ。
今回は、臨済宗の僧であり、作家でもある玄侑宗久氏に、不透明な時代を生きる心構えについてうかがった。

自分をマニュアル化してはいけない

今の日本はいざなぎ景気を超える最長の好景気が続いているといわれながら、誰もが不安感をぬぐえずにいるようです。

世の中は不透明なものですから、先のことを考えれば不安にもなるでしょうね。明日だって不透明でしょう。それなのに「複雑系」だなんだといろいろな理論を持ち込んで、それでもどうなるのかわからないのが不安だという。それはプロジェクション&コントロール、つまり工学系の計画して実行するという考え方を、あまりに強く人生にまで持ち込むから、みんな苦しくなる。とくにビジネスパーソンはそうなりがちですね。不透明を嫌がるからです。しかし、仏教の立場から見ればこの世とは無常な時間であり、不透明であるのが当たり前なのです。
 計画の中に全ての時間を押し込むのは、過去に現在と未来を従属させてしまうつまらない生き方です。現在をしっかり生きないなんて、本来は怠慢なこと、現在を最優先させるために、計画は常に修正中でよいのです。

確かに、子供の世界でさえ「未来に備えるため」という理由で「現在」をないがしろにしがちです。

だけど、その「未来」が確かだとは誰にも言えません。現実が不透明なのに未来に対して準備しようとするあまり、現在を生き切れないなんておかしなこと。人間は数字や概念に弱い生き物です。過去に立てた計画がいつの間にか独り歩きしてしまい、自分が主人公になっていないのが問題なのです。

よく「志が大切だ」ということが言われますし、本誌でも読者にそう説いています。

孔子は「三十にして立つ」と言いました。そのイメージなんでしょうね。「四十にして惑わず」「五十にして天命を知る」と。そこには人生に一貫した志があると考える儒教的発想があります。しかし、禅でいう「志」とは、老荘的な志なんです。変わったっていい。例えばトイレに行く時、会議でプレゼンする時、ワインを飲んでいる時。それぞれの志は違うでしょ(笑)
 現代人は「個性を大切に」と吹き込まれています。そこには一貫した個性というものが存在するという前提があります。一日の間にいくつもの志があるとは思えない。一貫した志がないといけないと思っているから、自分で苦しさをつくっているわけです。

たしかに「自分らしさの追求」とか「自分探し」に熱心な人が多いです。

頭で考えている自分と現実の自分にずれがあるのは当たり前ですが、そう思えない人もいます。無数のイメージの中から一部を拾い上げてそれを「自分らしさ」と思ってしまう。要するにそれは自分のマニュアル化なんです、しかし、そんなマニュアルで対応できることばかりの人生でいいのかどうか。思ってもみなかった新鮮なことに出会いたいなら、自分をマニュアル化してはいけないのです。

山水に損失なし 損失は人の心にあり

玄侑さんご自身も、27歳で天龍寺の僧堂にお入りになるまで、暗中模索の時期が続いたそうですね。

作家になりたいと思っていたので、書く時間が取れる仕事ばかりを選んでいました。ごみ焼却場の従業員、ナイトクラブのボーイなど、いろいろな仕事を経験しましたが、案に相違して時間はあるのに小説はさっぱりかけない。人生が計画通どおりにはいかないものだと痛感させられたものです。仏門に入ったのは、子供の頃から寺の子としてうっすらと感じてきた仏教を、より深く知り、体験したかったからです。
 道場に入門することは、基本的に職業訓練ではありません、半数は修行を終えても坊さんになりませんし、会社員に戻る人もいます。考古学者や音楽家になった人もいました、私自身も、入門当初は坊さんになるつもりはありませんでした。ただ道場にいる間に、「なって当たり前」という気分になりましたね、結局これも、入ってみないとわからなかったことの一つです。
 私は仕事をテーマとした講演をすることがありますが、そこで申し上げるのは、「職業」と「どう生きたいか」は別だということです。「どう生きたいか」という部分が揺らがなければ、どんな仕事をしたっていいわけです。

今は選択肢が多すぎますし、自分で選ぶ自由があるからかえって大変なのかもしれません。

昔の日本は、いろいろな人が寄ってたかっていろいろなことを言う文化がありました。それによって、人間のいろいろな姿も見えたものです。人にはいろいろな価値観があることを知り、その中で人との付き合い方も覚えていった。でしゃばる人が減った今はそれがなくなりましたね。
 よく「職場の雰囲気と合わない」という理由で転職を繰り返す人がいますが、職場の価値観は職場が決めるものです、それに本気で物申してもしかたのないこと。それよりも、もっと深いところでどう生きるかということを、自分で考えていかなければなりません。しっかりとして自分の物差しを持つことです。

計画を立てるのは無意味とおっしゃいましたが、会社を起こす人はそうもいかないところがあります。

それはそうですね。無計画で夢を持たずにやれるわけではない。しかしこだわりすぎてもいけません。「縁」の入り込む余地がなくなるからです。約束した相手だけと会っていても楽しくないでしょう。計画とはある種のエネルギーの方向を定める「方便」だと考えればいいのに、絶対的な意味を持たせるからいけないのです。目的の達成と幸せを勘違いしないことです。
 そして、矛盾したっていいんです。かつて夢窓国師は「山水に損失なし、損失は人の心にあり」と言いました。山水とは自然のこと。つまり損得を感じるのは人間だけなのです。そして善悪、美醜といったように二極化したがるのも人間。しかし物事の大半はその中間で起きているのです。だから矛盾を感じてたくさん悩めばいい。それを楽しめるのが人間のいいところだと思うんです、矛盾を感じるくらいのほうがエネルギーを秘めていますよ。

独立した人の中には「組織の中ではやりたいことができないし、束縛も大きいので独立したけれど、かえって大変になった」という人もいます。

組織の中にいても、独立しても、常に相手となるのは価値観の違う他人です。異なる価値観とつきあっていく大変さはどこでも同じですよ。道元禅師は「他者にも己れがある」という意味で「他己」と表現しました。向こうだって自分中心に考えているのです、不都合が起きた時、それを誰かのせいだと思ってしまうことがもっとも不自由な考え方だと思いますね。会社に対して自分のかけがえのなさを求めてはいけないのです。
 大切なのは「私がこの仕事をやることでしか得られない何ものかがある」と思えること。それこそが、自分にとってかけがえのなさなのです。

2007/01/27 アントレ掲載

タグ: 仏教