日経WagaMamaインタビュー

武士道、華道、茶道など日本人の培ってきた精神や文化に大きな影響を与えてきた「禅」に、関心を寄せる人は多い。禅とは何か。なぜ、現代人の心をひきつけるのか。臨済宗僧侶で『からだに訊け!』(春秋社刊、板橋興宗さんとの共著)を書いた、芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんに話を聞いた。

【第1回】もうひとつの知 治療としての禅

 ここ数年、書店でも禅に関する本を数多く見かけるようになりました。禅は今までも、日本人の心のあり方に大きな影響を与えてきましたが、今回は第3回目のブームと言えるのではないかと思います。
 第1次ブームは鎌倉時代で、当時の禅は武士の死生観を形づくっていくものでした。これが武士道の始まりですね。
 第2次ブームは室町時代の末期で、禅は華道や茶道、能狂言といった文化の骨格として広がっていきました。まだ上層の武士や公家のものではありましたが、ある意味で民衆化した時期と言ってもいいかもしれません。
 そして、私が第3次ブームと呼んでいる今日、禅は治療としての役割を担っているような気がします。
 現代社会では、うつ病など人間関係の中で生じる病が多いといわれますよね。そんな中、あまりにもぶれてしまった人間の在り方を修正する力が、禅の中にあるのだと、私たちは気付きはじめたのではないでしょうか。
 明治時代以降、日本人は西洋から近代的な合理主義を取り入れてきました。知識をどんどん増やす、分析的な知性を磨く、学校でいい成績を取る。それらを「良し」としてきた大きな流れが、ここのところ大きく破綻しているわけですよね。
 それを反省するときに、一つの方向性として、私たちは禅の中に「もう一つの知」というものを見いだしているのではないでしょうか。「もう一つの知」を簡単な言葉で表現すると、それは「無心になったときに、すべてが直観的に把握できる」ということです。それはある意味で、武士道とも重なるものだと思います。

【第2回】「無縁の大悲」と「無心」

 海外に禅を広めた仏教学者の鈴木大拙(すずき・だいせつ)さんは、日本人が持つ美徳を、二つの言葉で語っています。
 一つは、主に浄土教から来る「無縁の大悲(むえんのだいひ)」。誰に対しても、分け隔てなく優しく接する。それを日本人は美徳として持っていると言っています。もう一つの美徳は、禅から来る「無心」。余計なことを考えずに没頭することではないかと説いています。「三昧(さんまい)」つまり、「精神集中が深まりきった状態」と言い換えてもいいかもしれません。
 浄土系の他力と、己を見つめようとする禅は、相反するもののようでいて、実はどちらも分かち難いもので、その両方が日本的霊性を形成してるんです。
 「無縁の大悲」について、もう少し分かりやすくお話しましょう。自分のおじいさん、おばあさんというのは、父方と母方で必ず二人ずついますよね。そして、ひいおじいさんとひいおばあさんは、4人ずつ、合計8人です。今挙げただけでも、ご縁のある人は10人以上になります。どんなに孤独だ、無縁だと思っている人も、実は無縁ではないのだと語っているのが「無縁の大悲」なのです。
 仏教の中では、「私」という存在は、すべてご縁によって花開いていくと説いています。外側のものとの関係の中で表れてきたのが「私」ですから、素直に外側のご縁に応じてみることで、今まで気づかなかった新しい自分が現れるかもしれません。ぜひ、ご縁を大切していただきたいと思います。

【第3回】丸暗記することの意味

 うつ病をはじめとする現代の病は、命と脳のはたらきが乖離(かいり)した状態から生じるのだと思います。
 「苦しくて死にたい」と思っているとしても、それは脳の一部であって、体は全然そんなことを思っていないんです。両手も両足も死にたいと考えず、元気にしている。ですから、死にたいと思っている脳の問題を解決するために、意識的に無心の状態をつくり出すことが見直されてきていて、その具体例の一つに「丸暗記」をすることが挙げられます。
 例えば、般若心経を暗記するときや唱えるときは、何も考えていません。考えると暗記することも、唱えることもできないからです。しかし、感覚ははっきりしている、つまり覚醒している状態です。お経を唱えるているときは、「感覚ははっきりしているが何も考えていない」状態なのです。
 私たち僧侶は、お経を唱える事でそういう「何も考えない」状態をすぐにつくることができます。しかし、多くの現代人にとって、そのような時間を持つことは難しいのが現状で、何もしていないとその分、何かを考えてしまい、どうしても心が自縄自縛になりやすいのではないでしょうか。
 戦後、日本の教育の流れは、「考える」ということに重きを置きすぎたような感があります。敗戦とともに、「丸暗記」という文化を捨ててしまったしっぺ返しが、今になってやってきている気がします。

【第4回】失われつつある、禅的日常生活

 日本人はかつて、禅が身近にある暮らしをしていましたが、意識しないでいるうちにどんどん基盤が失われ、いつしか生活の中に禅的なものが見いだしにくくなってしまいました。
 例えば、最近では正座をする機会がほとんどないですよね。正座をすると、腹式呼吸になりやすく、それは心の在り方にも大きく影響します。しかし、多くの親たちは、自分が子供のころに正座から得たことを特別意識していませんから、子供に正座をさせる必要性を感じていません。
 そして、多くの建築家はそこまで深くは考えていなかったので、いつのまにか和室がどんどん少なくなってきました。食事はダイニングテーブルで食べ、何かを書くときは、椅子に座ってコンピューターに向かう。昔の日本人が、禅的な素養を培ったような生活空間がなくなってきている今だからこそ、プチ出家という言葉が生まれ、わざわざ環境を変えようとする人たちが出てきたのでしょう。
 日本人の考え方のベースは、正座という姿勢によって培われていたと思うんです。「無縁の大悲(むえんのだいひ)」という、誰に対しても受容力を持つ精神の在り方は、理屈で学ぶものではありません。そこには、腹式呼吸という身体的な基盤が不可欠なんです。
 朝起きて、ご飯を食べる前に仏壇の前に座ってお線香をあげる。そんな習慣もなくなりつつありますね。一見、何気ないことのように見えますが、そんなわずかな時間の中に、実は私たちが学ぶべき大切なことがあるんです。そのことを今一度見直していただきたいと思います。

【第5回】「公案」とは何か

 禅の修行法の一つに「公案(こうあん)」があります。禅問答とも呼ばれています。
 私たちはロジカルに、そして分析しながら物事を考えますが、その方法では、物事の全体を把握することができません。「公案」は「考えないこと」自然に気づかせるための方便です。
 例えば、「公案」の問題の一つに、「富士山を荒縄で縛って持ってきなさい」というものがあります。「富士山を縛るぐらいだから、巨大な荒縄が必要だ」そう考えてみても、そもそも富士山を運べるはずがないわけですから、それはひっかけだと気づきます。富士山を持って来るのは、どう考えても物理的には不可能ですよね。「それならば……」というところから探究が始まります。
 禅問答と聞くと、「一休さん」を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、あれは「とんち」であって、禅問答とは違います。「びょうぶの中の虎を縄で縛りなさい」「縛りますから、まずはびょうぶから追い出してください」では、双方のレベルが同じです。「ああ言えば、こう言う」では子供のケンカと同じです。ただ、モデルになった一休宗純(いっきゅう・そうじゅん、室町時代の臨済宗僧侶)という人は、確かに面白い人だったようですね。
 禅とは、心の安心を得るための技術です。裸のままだと困るから、「禅」という下着を着る。その上はどんな服でもいい、つまり、どんな仕事をしてもかまわないんです。道場を出てから考古学者になった人もいますし、普通の会社員が道場に来ることだってできます。禅の素養は、どんな職業の人にも役立つものだと思います。

2007/06/25 日経WagaMama掲載

トップへ戻ります