施行まで3ヶ月 裁判員制度にひと言

「情緒」で人を裁く恐れ

 どの宗教も基本的に「人は人を裁けない」と考えます。
キリスト教で裁くのは神のみですし、仏教は破門しても人として生きていけないようにすることはない。
 国は「私の視点、私の感覚、私の言葉」で裁判への参加を国民に呼びかけていますが、そもそも「私」とは勝手でいいかげんな煩悩の元。善悪を判断できるなど思い上がりかと思います。
 聖書で、石打ち刑に処せられようとする女を、イエス・キリストが人々に「罪なき者だけがこの女に石を投げよ」と説いて救う話は有名です。誰も石を投げなかった。罪を犯したことがないと心から言えないからです。
 親鸞聖人も、人は縁によって善も悪もなすと説きました。罪人とは、たまたま罪を犯さざるを得ない状況に置かれた人のこと。家族を守るために法を犯す場合もある。誰もが罪人になり得るとの教えです。
 神に代わり、法を裁きの原点に据えたのが現代社会です。その法をつかさどる者には、自己を律する厳しさが求められます。戦後、闇米を食べずに餓死した裁判官が象徴的です。
 人が人を裁くとは、それだけの覚悟が必要で、誰もが参加できるものではない。そして、法の裁きには「私」の情緒や感情を持ち込んではならないのです。
 裁判員制度が始まると、例えば殺人事件の公判で検事はいたい写真や犯行のイラスト説明などビジュアル化を進め、裁判員の情緒に訴えるでしょう。時代の空気が入り込み、感覚で人が裁かれる。
 さらに、裁判の迅速化で拙速な判決が増え、冤罪(えんざい)を生む恐れが高まる。不十分な審理で死刑判決を下した後「間違っていました」では済まされない。
 「市民感覚を裁判に」と言うのなら、市民の気持ちが分かる裁判官を育てればいい。市民の感覚を取り入れた判決に市民は文句を言えなくなる。異論を封じるシステムです。
 私は宗教者として人を裁きたくない。それは私の生活信条のようなものです。

2009/03/05 北海道新聞掲載

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