1. Home
  2. /
  3. インタビュー
  4. /
  5. 避難生活の中で生まれた苦しみの共有と絆

スペシャル企画3・11 東日本大震災が変えたもの被災した人も、しなかった人も気づいた“喪失” ――震災による“日本人の心の変化”とは?

避難生活の中で生まれた苦しみの共有と絆

 福島第一原子力発電所から45kmの福島県三春町。そこに暮らす作家であり、禅宗の僧侶である玄侑宗久さん(55才)はいう。
「非日常を続けていくことはあまりにストレスなので難しい。だから、そこから日常に戻ろうとするのはある意味当たり前のことなんです」
 三春町の住民もまた、原発を恐れて避難をする人が後を絶たなかったという。
 避難については役所に届けるわけではないが、新聞販売店に新聞をしばらく止めてくれるようにという連絡がはいるために、誰がいなくなったかということが明らかになるそうだ。
「5000世帯余りが暮らす町ですが、そのうち120世帯ほどは避難したようです。行った先がお金のかかる場所であれば経済的に負担ですし、そうでない場所であったとしても、精神的にストレスフルだったのでしょう。放射線を意識しないで地元で暮らし続ける人よりも、避難した人のほうが実は多大なストレスを感じていたのだと思います。だからこそ、原発が落ち着いたともまだいえない状況なのにもかかわらず、そのうち75世帯はすでに町に戻ってきました」
 この町から全国へ避難する人がいた一方、原発から20km圏内の住民はこの町に避難してきている。
 避難者は体育館などで雑魚寝をしているというが、町にもようやく仮設住宅ができはじめる。
「仮設住宅に申し込みますか?」
 そんなアンケートをとったところ、「申し込まない」という人が驚くことに25%もいたのだという。なぜプライバシーもなく不便な体育館を選ぶのか。
 それは「みんなと一緒にいたい。一緒に避難してきたのだから」という気持ちからではないかと玄侑さんは読み解く。
「政府はあちこちの温泉旅館を借り上げて、避難者に開放しています。そちらであれば3食ついて、温泉にもはいれる。それなのに数日温泉にいただけで、もう一度避難所に戻ってきてしまう人が少なくありません。それも先ほどの仮設住宅の話と同じことでしょう。自分たちの苦しみをわかってくれるのは、一緒に避難してきた人たちだけだという絆が生まれているのです。その絆が切れてしまうのは、生活の苦労よりも、人間にとってはずっと悲しいことなのでしょう」
 震災を機に新たな絆を結ぶ人もいれば、絆が断ち切られてしまった人たちも多い。
 玄侑さんによれば、震災後1か月ほどの間にすでに自殺の葬式を2件ほど担当したそうだ。小さい町なので、いつもよりもあきらかに多い。
「心が不安定であった人は、余震が続いて大地が揺れるということに耐えられない不安を持ったのでしょう。
 仕事もなくなって、生活のめどもつかない。放射能にも怯えなければならないのですから」
 いい知れぬ不安を話せる人もいない。自らの抱える孤独もまた震災後に浮き彫りになったのだろう。
 当然のことだが、それは震災による死者には数えられない。しかし玄侑さんはこれも二次災害ではないかという。
 一方では、須賀川市において野菜農家の64才の男性が自ら命を絶ち、飯舘村では102才の高齢者が計画避難の迷惑にならないように自殺したことが大きく報道された。人生に絶望し、あるいは自分のせいで家族が逃げられない事態を恐れた心のうちを考えると息苦しくなる。
 世間には知らされないけれども、地震と無関係とはいえない無数の死もまた現実に存在している。そして、これからもそのような死が増え続けるのかもしれない。
 玄侑さんはいう。
「いまはどさくさに紛れてわからない不安が、今後だんだんはっきりと見えてくるでしょう。自分が置かれた立場の救いようのなさが見えてきたときこそが問題なのです」

2011/04/28 女性セブン掲載

タグ: 東日本大震災