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死を思い生を深める

臨死体験から生まれた浄土教 死の向こうには素晴らしい世界

臨済宗の僧侶で芥川賞作家の玄侑宗久さんの近著『アミターバ』(新潮社)は、さまざまな臨死体験に基づいて死後の世界をリアルに描いたもの。どんなに文明が進んでも、人間は死から逃れることはできず、死には不安が付きまとう。しかし死は、その向こうの素晴らしい世界への一つの通過点と玄侑さんは言う。福島県三春町の福聚寺に玄侑さんを訪ねると「病院にいるような人たちに読んでほしいと思って書きました」。と語り始めた。

タイトルのアミターバは?

アミターユス(無量寿)という呼び方もありますが、「無量の光」という意味のサンスクリット語で、阿弥陀仏のことです。衆生救済の願を立てた修行僧が成仏し、西方の極楽浄土で阿弥陀仏となって、ひたすら人々の救済のために働かれているという、大乗仏教の浄土教の中心的な仏さまです。浄土教では、自力で成仏できない人も、念仏を唱えると、阿弥陀仏の救済力で極楽に往生できると説かれています。そこから、人は死後、浄土という光に包まれた世界に行くというイメージが生まれてきました。
 死後のビジョンとして阿弥陀仏を超えるものはないと思います。ですから、浄土教だけでなく、仏教各宗派にも結構利用されています。禅宗の葬式でも、阿弥陀仏に登場していただかないと収まりません。
 仏教だけでなくキリスト教も、例えばネストウス派は阿弥陀信仰の影響を受けています。異端とされたキリスト教の中に神の上に光を置いたものがあります。あらゆる存在を系統樹にした絵があるのですが、神はすべての光を受けていて、犬や猫になると受ける光が少なくなる。神の上に何かを置くのですから、異端とされても仕方がない。あれは明らかに阿弥陀信仰の影響です。
 ところが今や、阿弥陀仏という存在がキャラクター化して、マスコットのようになっています。阿弥陀仏はある働きの象徴であったり、その働きを実感的に理解される状態に戻してあげないといけない。『アミターバ』はそういうつもりで書きました。先日、浄土真宗の和尚さんから「読んで感銘を受けた、門徒にも話したい」というメールが来ました。

『アミターバ』は僧侶の義母が主人公で、肝内胆管がんで入院し、娘や息子、婿に見守られながら死んでいきます。お母さんに聞かれて婿さんがいろいろ死について説明するものですが、それが玄侑さんですね。

主人公のモデルは妻の母です。近くの病院に入院していたので、毎日のように見舞いに行きました。私が持っていた死後のテーマを、その母の死を借りて、母の冥福を祈る気持ちで書いたものです。

お母さんは、「私のこの意識がなくなる、という事態が想像できなかった」と語っていますが、大抵の人はそうした恐怖を死に対して持っています。それが、一時、仮死状態になった時、亡くなった夫や知人と出会う夢のようなものを見て、「あれが一時的な死だったとするなら、もしかすると死後もなんらかの意識は続くのではないだろうか?」と思うようになります。つまり臨死体験ですね。その後、生まれた故郷など懐かしいところへ行ったり、若いころの素敵な夫に出会ったりします。

浄土教も、中国で曇鸞(どんらん)や善導(ぜんどう)などの僧が六~七世紀、臨死体験を元に成立させたビジョンです。通常、仏教では死後の四十九日間、肉体を離れた幻の体を想定しています。そこには何らかの意識が続いているので、脳死状態で体験することも理解できます。
 危篤状態になったお母さんは自分の肉体から離脱して、病室の上から医者や身内の振る舞いを見ていたり、亡くなってからは自分の葬儀を見ていたりしますが、そのあたりのことは、京都大学のカール・ベッカー先生が各国の臨死体験を研究し、『死の体験』という本に詳しく検証されています。

玄侑さんは中学生の時に日本脳炎にかかったそうですが、臨死体験のようなものはあったのですか。

私は覚えていないのですが、周りから聞かされた不思議なことがあります。例えば、四一度の以上の高熱が五日以上続いていた時、「電話がきた」と私が言い出し、看護婦が「聞こえない」と言っても収まらないのでベットの脇に電話機を持ってくると、私は受話器をとって話し出したそうです。それがちゃんとした会話になっていたそうなので、アミターバ状態だったのかもしれません。
 不思議なことに、その間は、誰かが訪ねてきても、私はその人とは全く別な人に話すように話すように話しかけていたそうです。天童天女が現れていたのかもしれない(笑い)。

芥川賞を受賞した『中陰の花』にはおがみ屋さんの女性が登場しますね。

水子が見えたり、その声が聞こえたりする人は実際にいるのですが、少なくとも、見えている状態にあるときには言語化できないはずなのです。そこから戻った状態で言語化するので、その人の考え方や生活習慣がどうしても反映され、その部分を割り引く必要があります。
 私は二十代で夢の自動筆記をやったことがありますが、それと似ていると思うのです。訓練次第で、夢を見ている途中で、枕もとのノートに書くことができ、夢からは覚めないで、続きを見ることができる。これは訓練できますから、霊媒師はそういう訓練をするのでしょう。明恵上人も夢の書き取りをやっています。二十代の自動筆記で見た様子は、今も忘れられません。

小説には天使のような少女が出てきますが、それも臨死体験にあるのですか。

そうです。天使や天童天女というのも実にうまくできていると思いますね。なぜかキリスト教も仏教もあのような存在を想定しています。ですから、私はやはりキリスト教のことも内容に取り入れています。

結局、「私」という意識はどうなるのですか。

お釈迦さまは、その「私」という意識が死を境にしてそのまま続くのではないとおっしゃっています。しかし、それは小説にできない。死を通過する「私」を『アミターバ』では書いたのですが、あそこまではまだ「私」が保たれているのです。死は瞬間ではなく、ある経過だと思うのですが、本当はもう少し早く「私」ではなくなるのではないか。しかし、そこは小説では書けません。

仏はもともと「ブッダ」つまり「目覚めた人」を意味したのですが、日本では死者も意味するようになります。仏は「ほどける」から来ているのですか?

もう一つの説は、「浮図家(ふとけ)」から来たという説です。浮図は石を積み木を立てた墓標、つまりストゥーバ(卒塔婆)ですが、私はやはり「ほどける」から来ていると思います。
 仏教で死のことを「四大分離(しだいぶんり)」と言います。地水火風という四つの要素が合わさって人が生まれ、それがほどけることで死を迎える。だから死には「ほどける」という意味あいがもともとあるのです。
 火葬にしても地球上からはなくなりません。化合することはありますが、元素そのものは存在し続けている。仏教の基本はエネルギー保存の法則なのです。空というのはエネルギ-のことで、それが形になったのが現象界。ほどけてまた、元の空に帰るのです。

それが来世だとすれば、現世の意味はどこにあるのですか。

仏教では方便という言葉を使います。特定の姿と形の背後には常にエネルギーがあるという考え方が色即是空です。しかし逆転して、エネルギーは常に何らかの枠組みの中でしか現れないとすると、それは空即是色なんです。それを、仏教では方便の世界と言う。その反対が本分の世界、仏教語では実相です。しかし実相の世界があったとしても、私たちが生きられるのは虚仮(こけ)なる世界だけです。それ以上のことは、私は考えません。例えば、「神が試練のため遣わした」「現世で修行する」などはその解釈にすぎないと思います。
 仏教はヒンズー教が考えた輪廻観を否定してはいないのですが、お釈迦さまは輪廻は断ち切れるとおっしゃった。ですから禅宗は輪廻をインド的な意味では使わず、純粋に心の輪廻として語ります。前世は阿頼耶識で、要するに深層心理で説明します。それも実に科学的な発想です。

向こうへ行くと親しい人が迎えにきて会えると思うと安心する。しかし、夫婦でも仲が悪いと会えないという教訓話になります。

バチカンなどが臨死体験に否定的なのは、地獄の体験がほとんどないため教訓にならないからです。みんないい世界に行くことになると、教訓にならない。浄土教もそうですが、天台宗で主張した地獄がどんどん縮小されました。地獄そのものを否定はしないのですが、通過するだけで、最後は極楽に行くことになっています。

お盆に先祖が帰ってくるという考えには、暗くて冷たい世界にいるというイメージがあります。極楽にいるのなら、帰ってくる必要はないのでは。

それは中国の死生観から来たもので、「鬼(き)」で表される死者の世界は山の上などの暗く冷たい世界なので、この世に戻ってこられるのが楽しいだろうというのが「お盆」です。その後、浄土教が起こり、日本人のほとんどは自分の先祖は極楽に行っていると思っているのですが、お盆に帰ってくるという話は残ったのです。

「死んだらどうなるのですか」という質問に、お釈迦さまは「無記」という沈黙で答えられたと言われています。

これは瞑想によってその人の意識の変容を促しているのだと思います。あなた自身が変わることによって分かってくることだ、と。論理的理解ではなく、瞑想の実践による意識の変容によってのみ体験的に理解できると思っておられた。
 最後にお釈迦さまが弟子たちにおっしゃったのは、「自らを灯火とし、法を灯火とせよ」、つまり、最後のより所は自分自身と宇宙自然の法則だということです。普通の教祖だと、「より所とすべきは私とこの経典である」と言うでしょう。宗派意識のなさは驚異的です。
 しかし弟子たちが、こんな素晴らしい教えは世に広めないといけないと思ったのも自然な感情です。それで経典を作り、宗教として世界に広めていったわけです。

『アミターバ』では臨死体験に並行して物理学の話があります。例えば、死によって数グラムから四十グラムの体重が失われ、それがエネルギーに変換されると、人が瞬時に長距離を移動したりできるという説明です。

あのアプローチは、今まで死に対してあまりなかったと思います。本来、仏教はそういう科学的なアプローチをしているので、今の僧侶たちも当然、考えていると思う。しかも、最先端の物理がむしろ宗教に近づいてきていて、物理学者の中には心そのものまで物理的に解明できるという信念を持って研究している人たちがいます。
 仏教物理学という分野もあり、極微(ごくみ)という最少物質の大きさが素粒子にほぼ等しい。それ以下の単位は空しかないので、空をエネルギーととらえると、もう物理学そのものです。今は物理学がようやく仏教に追いついてきた、非常に面白い状況です。
 私自身が仏教は何て科学的なんだろうと、日々驚いています。現代の物理学の成果を集めても、仏教は全く崩れないし、むしろそれを含めて語れるというところを書きたかったのです。小説にあのアプローチを入れないと、教説の説教のようになってしまいます。

お釈迦さまがそのような説明をしたのは、現象を説明するためですか。それとも人の悩みに答えるためだったのですか。

それは両方のためでしょう。一つのドグマを作り上げることには、お釈迦さまはあまり興味がなかったと思いますが、やはり、世界とは何か、宇宙とは何かということはずっと抱えていたと思う。それには古代の人もすごく関心があったに違いありません。
 想像力にしても、一人の仏が教化できる「三千大千世界」という大きさは、現在、想定している宇宙よりもはるかに広いですから。小千世界でも大変な広さで、それを千集めたのが中千世界、それを千集めると三千大千世界です。

懐かしい場所に移動したお母さんが、人の前に姿を現すなど、必要以上のことをしようとすると天使のような少女に止められる場面がありますね。

その理由は、エネルギーを無駄遣いさせないためです。私はアミターバというものが、余剰エネルギーの集合体ではないかと考えています。アインシュタインの考えたとおり宇宙の総エネルギーが常に一定で、一グラムの物質から十の十四乗ジュールというものすごいエネルギーが生まれるとすれば、何グラムか減ることで、ほとんど使い切れないエネルギー量になります。イエス・キリストが死後、何度も出現し、地震まで起こしているのも、それだけのエネルギーがあるからです。
 そういう余剰エネルギーをささげものにして、私たちはアミターバという素晴らしい世界に入っていけるのではないか。ですから、それが少なくなるのはよくないのです。かなり奇想天外に見えるかもしれませんが、私としては非常にクラシックだと思っています。

時間が最大の煩悩なのですか。

時間というものは、あくまでも私たちが脳機能を駆使して作り上げているものです。瞑想をしてみると実感できるのですが、記憶には時間がごちゃごちゃに入っていて、決してカレンダー順には並んでいません。それが本来の脳の中の在り方で、それを日付順に並べたり、因果関係を付けたりするのは、脳が整理していることです。その機能がほどけると、脳の中の状態がそのまま出てくるのではないでしょうか。
 社会に適応するために、人間は自分が本来持っている能力を退化させている部分があるように思います。時間感覚もある種の退化ではないか。それが、死によって本来のもっと自由な脳の在り方に、回帰していく。ある種の解放として死をイメージしています。
 坐禅の最中に、時間が流れていないと実感する時があります。時間は時計どおりに流れていないのに、脳が時計どおりに流れていることにしている。死はそういう社会的な制約がなくなった状態です。

脳と心の関係はどう思われますか。

ベルグソンは脳と心をハンガーとシャツに例えています。ハンガーがなくなるとシャツは落ちるから、脳機能が壊れると確かに心も形を成さなくなるのですが、あくまでも心は脳そのものではなく、ハンガーじゃない。脳の機能局在論がますます精密に進んでいますが、それで心が解明できるとは思えないですね。
 心は働きなのです。働きはものそのものではなく、全体の絡み合いです。例えば、人は右手を動かそうと思うと間もなく、右手は動いています。昨年、米国でようやく右に動きたいと思えば右に動く義足が開発されていますが、その数百倍も複雑なことを私たちの体は行っています。
 この在り方が、体を抜け出しても残っているとすれば、当然、瞬間移動のようなことはできるはずです。実際、東大の古澤明先生は二〇〇〇年にテレポテーションの実験に成功し、十キロ先まで画像を転写しました。その先には、人間のテレポテーションが考えられます。ですから、『アミターバ』に書いたことは、私が実際にあり得ると思っている範囲のことです。ただ、やはり最後の、巨大な光源がお母さんに近づいてくる場面は、どうしても想像というしかないのですが。

結局、死をどのように考えたらいいと思いますか。

死の向こう側は、言葉では表現できない世界です。しかし、考える言葉やヒントはたくさんあるので、それらから素晴らしい「向こう側」を想定しておいて、あとは楽しみにとっておけばいいのではないでしょうか。
 お釈迦さまは「瞑想によって体験する以上のことは、死後にも起こらない」とまでおっしゃっています。宇宙の始まりや終わり、死後のことについても、今の意識のレベルでは考えても答えは出ないでしょう。それよりも瞑想を深めることで自分の意識が変容していけば、やがて自然に実感できるようになると思いますよ。

2003/8/10 Sunday 世界日報掲載

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