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「年忘れ」の効用

忘れる=心の声聞くこと

 一周忌、三回忌、七回忌……そして、基本は五十回忌まで。日本の仏教が、長らく受け継いできた伝統の一つに「年忌法要」があります。
 たとえ普段は忘れていても、節目の年に法要を営み、故人をしのんで一生忘れないようにする。同じ仏教国でもスリランカやタイ、ミャンマーでは一般的に四十九日間はみっちり喪に服す一方、お墓を設けて供養することはありません。
 日本人の心には日々移り変わって忘れていく「無常」と、心に突き刺さって忘れられない「あわれ」という対極の概念が併存しています。
 古典文学の中にそのことを強く感じるようになったのは、2011年の東日本大震災に遭ってからです。
 いまも多くの県民が避難生活を続ける福島は、今年も大水害に見舞われました。重複被害に遭った人もいます。日本に住む限り、地震や台風、津波といった自然災害と向き合わなければなりません。
 あまりに災害が多いとき、人は過去を忘れなければ生きていくのがつらくなります。一方、たとえつらくても、どうしても忘れられないことがあります。
 「忘れる」けれども「忘れない」。この相矛盾する心情の積み重ねが、複雑で奥深い日本の文化を形づくってきたのではないでしょうか。
 二つの概念を両立させるカギとなるのが、「思い出す」という心の働きです。
 約30年前、私は実家の福島県三春町の福聚寺(ふくじゅうじ)に帰ってきました。そして、故人の境遇や最期を詳細に記録しようとまだ高価だったコンピューターを導入しました。法要の前に読み返せば役立つと考えたのですが、疑問を感じ数年で読み返しはやめました。
 平板に残された記録に頼らない方が、「思い出すべきことを思い出す」と感じたからです。記憶の材料は同じでも、各人の「思い出」は時に全く違うものになり、「思わぬことを思い出す」のです。
 寺に戻って間もなく、5軒の檀家さんの墓地が道路建設で移され、たくさんのしゃれこうべが出てきました。以来、この方たちと忘年会「しゃれこうべの会」を続けています。毎年、当時の光景を思い出し、先祖供養を語らいます。そして、会が終われば、そのことを忘れ心機一転して日常に戻ります。
 禅寺では、正月に必ず初祖と仰ぐ達磨(だるま)大師の軸を掛けます。1年の間にたまったあかを落として年を忘れ、初心に帰るのです。
 忘れることは自らの心の奥底からわきあがってくる声に耳を傾けることでもあります。何を忘れて、何を忘れないのか。今年の大みそかはスマホの検索から離れ、目や耳を休ませて、自らの内面と対話する時間にしてはどうでしょうか。

2019/12/10 朝日新聞「耕論」〈こうろん〉掲載

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