僧侶である私に、菅直人首相(当時)から直接、復興構想会議への参加を呼び掛ける電話が来た。驚いたし、大変だと思ったが、福島に住む者として引き受けるしかないと感じた。会議では、被災地で次々に浮上する個別の問題に対する提言も、書面で数多く提出した。しかし実現したものはほとんどなく、政治への不信感も強くなった。
復興構想会議では官僚の発言が原則禁止され、委員のアイデアを官僚と擦り合わせて実現可能性を持たせる機能がなかった。少なくとも10年間は委員を務めるつもりで引き受けたが、2011年6月に首相へ「復興への提言」を報告して以降は1回召集されただけで、会議は翌年に廃止された。
私は、原発事故により古里を追われた自治体を維持するため、住民がまとまって避難する10万人規模の新たな町を作れないかと提案し、福山哲郎官房副長官(同)も「議論をしている」と打ち明けた。しかし、結局その後は議論もされず、避難者たちも全国に分散したまま定住しつつある。省庁横断で協力を得られていれば、今でも実現できたと思うし、残念でならない。時間の経過とともに変化する各自治体の状況も踏まえ、省庁や自治体の枠を超えて復興の大きな絵を描く復興構想会議が存続しなかったことで、提言の意味も薄れてしまったと思う。委員としての経験は、なまじ本気で関わっただけに政治への無力感をもたらした。
東日本大震災は「文明災」だとの議論もなされ、会議自体は印象深い。都市は自然をコントロールしようとし、経済的利益の追求が原発のような効率化を求めた。そのような文明はあの時、転換されるべきだったが、10年がたとうとする今もあまり変わったようには思えない。
2021/03/02 毎日新聞朝刊掲載