第5回仙台短編文学賞(荒蝦夷(あらえみし)、プレスアート、河北新報社による実行委員会主催)は、11月15日まで応募を受け付けている。今回選考委員を務める作家で僧侶の玄侑宗久さん(65)=福島県三春町=に、応募作への期待や創作の魅力を聞いた。
――「仙台・宮城・東北に何らかの関連がある作品」との条件をどう見ますか。
「東北は非常に広く、長い歴史もある。ジャンルを特に問わないのはうれしい自由さです。東北つまり北東は『丑寅(うしとら)』、昔から死者が出入りする方角なんですね。普段は日が差さない、未開のエリアが『心の東北』だとすると、それは誰にでもある問題といえます。挑んでもらう意味があります」
――規定の「原稿用紙25~35枚」の印象は。
「35枚程度の原稿を頼まれることは、普通あり得ません。とても緊張感のある枚数だと思いますね。書きながら考えるということが許されない。じっくり煮込んで一気呵成(かせい)に書くみたいな。そぎ取る、削ることが大事でしょうね」
――過去4回は東日本大震災の影響を受けた作品が大賞に選ばれています。
「10年前の経験をしていれば、正面から向き合わずとも遠景に震災が出てくることはあるでしょう。ですが『震災文学賞』ではありませんし、あえてテーマにと考える必要はないと思います」
――どんな作品との出合いを期待しますか。
「意識はどこまでも無意識の『やっこ』、使い走りに過ぎないと考えています。仏像を彫る人はよく『この木の中に隠れている仏を彫りだすだけ』などと言う。書きたいものがぼんやりとあって、それをどう形にするか。もちろん技量が必要、感覚も大事ですが、もともと木の中に仏像が仕込まれていると信じるような、自分の中の衝動を信じるところから始まるのではないでしょうか」
「ものを書くということは、意識よりも無意識の方を信じるということ。ぼんやりしているけれど、とても大切なものを彫り出した、そういう作品を読んでみたい」
――創作の魅力を教えてください。
「私の場合、自分の中の無意識が出てこないと作品は終われません。特に長編は全体の4分の3くらい書いて、第3コーナーを回った辺りから、本当に自分が書いているのか分からなくなってきます。もう自動筆記に近くなる。ゴールが見えてきた時の喜び。自分じゃなくなるほどの世界に行けないのなら、書いても面白くない。小説はそういう合理性を超えた体験ができるツールです。書くことで、自分に潜む無意識に触れるような体験をしてもらいたいです」
2021/10/19 河北新報朝刊掲載