『慈悲をめぐる心象スケッチ』を読んでいて『祈り』について考えました。
私は目が悪いので眼鏡をかけています。毎朝目を覚ますとまず眼鏡を磨いて昨日の汚れを落とそうとするのですが、綺麗に磨くというのもなかなか難しいもので、そこそこのところで諦めて眼鏡をかけることにしています。
眼鏡が汚れているためにはっきりと見えない事もあるのでしょうが、昨日と今日で視力が同じとも限らないし、見ているもの自体が変化している可能性もあります。だいいち眼鏡拭きが綺麗だったかどうかも怪しいのですが、目の悪い私がそれを確かめようとすると今度はそのこと自体に矛盾が生じると思います。
しかしそんな事には関係なく朝はやってくるので、自分の視力に合わせて作ったつもりの眼鏡をありあわせの眼鏡拭きで磨くという作業を続けています。
そうなってくると一生懸命に磨くしかやる事はなくなってくるわけで、結果として見えようが見えまいが一心不乱に祈るような気持ちで磨くことを心掛けています。
見える見えないに拘らず無心に磨いている姿を後ろから見るといかにも祈りを捧げている姿に見えない事もなく、清々しい朝の日課として今は気に入っている次第です。