第20回脳の世紀シンポジウム特別講演

からだの言い分

 脳の世紀といって皆様もりあがっているところに水を差すようなタイトルですが、「からだの言い分」という演題でしばらくお付き合いいただきたいと思います。

 生命が発生してからの脳の歴史をたどりますと、最近非常に注目されている前頭前野や、大きくいえば大脳皮質は、非常に開発が遅れていた場所のような気がします。ネコにもイヌにもないということは、もともとあまりよい場所ではなかったのではないか。荒れ地に新たに駅ができて急に賑わうようなことがありますが、そのような場所が大脳皮質、なかでも前頭前野あたりではないか、という気がしております。そこに、「わたくし」という意識がすんでいるとされます。きっとそのせいでしょう、現在の世の中では前頭前野が重んじられすぎているという気がして仕方ありません。
 別のたとえをすると、昔からやっている大きな老舗で、何人もの番頭さんがいてうまくいっているところに、東京から突然どら息子が帰ってきたようなものです。身体のことは小脳という大番頭がやっており、発汗のことも睡眠のことも俺たちにまかせておけという番頭がいっぱいそろっているところに、ちょっとコンピュータを学んだくらいの若い衆が戻ってきたため、からだの言い分、いわば古番頭の言い分をうまく聞き取れず、会社経営に難渋しているのが、現代社会の行き詰まりではないかという気がするのです。
 三蔵法師がインドから持って帰られたお経のなかに「唯識仏教」があります。唯識仏教はこころをどのように認識していたか。
 感覚とからだ、そこに発生するいろいろなものの関係において、基本的には六つの器官を考えています。「眼耳鼻舌身意」。身は皮膚、触覚です。身のあとに意識の「意」がきます。ですから、目がとらえた結果としてのものを眼識(げんしき)、耳がとらえた結果を耳識(にしき)といいます。このように五感による五つの世界がきて、最後にくるのが意識です。意識はもともと仏教語です。意という感覚器官がとらえた結果を意識と呼んだわけですね。
 ただし、唯識仏教ではそれではすまないと考えて、いわゆるフロイトが潜在意識と呼んだ部分に、末那識(まなしき)を想定しました。これは第七識です。そして、そのもっと奥深くに第八識の阿頼耶識(あらやしき)を想定しました。この阿頼耶識は、ユングが集合的無意識といっているものにほとんど重なります。ユング自身が仏教のなかの理論に触れて集合的無意識を提案したともいわれています。
 意識は、われわれが認識できる世界ですが、その下に末那識と阿頼耶識、すなわち潜在意識と集合的無意識があります。この関係はどのようになっているのか。
 最近、ユング派の心理療法家でしかも物理学者のアーノルド・ミンデルが、意識がない、あるいは意識が混濁していたり、アウトプットがうまくいかなくなった人々と会話できるという研究成果を『昏睡状態の人と会話する』(NHKブックス)で発表しています。昏睡状態に陥っても、インプットがちゃんとしている方は結構います。その方と「イエス」のサインと「ノー」のサインさえ決めることができれば、かなり複雑な会話もできるというのです。
 最近は、死ぬときどうするかを元気なうちに決めておく方がおられます。しかし、元気でなくなると気がかわるかもしれません。本当は、そのような状態になってからあらためて訊いてみないとわからないわけです。ここでは、意識を重んじすぎることの怖さがあらためて浮き彫りになります。
 また、アーノルド・ミンデルは、痛い部分がからだのどこかにあったとすると、そこには末那識、潜在意識が関係しており、なにもしないのにからだが痛い場合は潜在意識が、押せば痛い部分には集合的無意識が関係しているという発言もしています。

 皆様も実感がおありだと思いますが、意識がとらえられる部分はものすごく狭いと思います。京都大学の総長をされた医師の岡本道雄先生が、退官記念講演で「われわれ人間にわかっている人体のことは、おそらく四割弱だろう」とおっしゃっています。最大まで学んでも四割いくかいかないかしか人体についてはわかっていません。しかしそれでもうまく機能しています。無意識のあいだにうまくいっているのは、もちろん番頭さんのはたらきのお陰です。そこに東京から戻ってきたどら息子が、番頭さんとどうつきあえばよいのか、これが今回のテーマに関わる重要な問題なのだと思います。
 たとえば、筋肉も不思議なものです。ある一定の運動を、たとえば三回やったとしても筋肉はつきませんが、毎日何回か以上やると、筋肉をつくるはたらきが動きだすみたいです。しかしいったい、その数は誰が数えているのか。むろん意識して数えているわけではありません。ですが確実に、これ以上繰り返せば筋肉がついてくるという閾値がありますから、どこかにカウンターがあるはずですが、それはどうも脳ではないようです。

 意識がからだの思いをとらえきれていないという意味で一番象徴的なことは、意識は常に「わたくし」というものと絡みますので、意思とか思いになります。そのため、いやなことが重なったりすると、死んでやると思う人も最近では多い。しかし死んでしまうぞと思っているのは、たぶん前頭前野だけです。どうやって死のうかといろいろ考えて、たとえば水に飛び込むことになったりしますが、ここで非常におもしろい現象が起こります。
 いちおう、若いながらもどら息子は社長のつもりでおり、その若社長が全身を統御している気持ちで、死ぬぞといっているのですが、他のからだの部分は、じつはどこも死ぬ気になっていません。右手も左手も、左足も足の裏も、どこも死ぬ気になっていない状況ですから、水に飛び込んでも簡単には死ねません。菊池寛の短い小説に『自殺救助業』という作品があります。あまりに自殺の多い場所なので、その場所にある老婆が竿を持っていって竿をだすんですが、みんな覚悟して飛び込むのになぜか竿につかまってきます。死ぬ気で飛び込んだのだからつかまるな、といいたいわけです。しかし、死のうと思ったのは前頭前野だけですから、右手は無我夢中でつかまってきます。前頭前野が全身を統御していた状態は、水にはいった瞬間にすっかり解除され、全身が生きたい状態に戻るわけです。
 極端なたとえですが、われわれが持つ意識とか意思を重く見すぎると、このようなことになるのではないか。からだの言い分をちゃんと聞かなければいけない、古番頭の声を聞かなければいけないと思うのです。
 脳は計り知れないはたらきがある宇宙だと思っています。それと同時に、私は二十四時間動きをやめない心臓や腎臓にも尊敬の念を持っています。いやなものでも黙って受け入れ続けている肝臓には、畏敬の念といったほうがいいでしょう。たいしたものです。臓器として徳があるというのでしょうか。特に、肝臓、腎臓は徳が高いと思います。心臓はなんというか、意識すればすぐに頑張っていることがわかりますので、それなりに皆さん敬意をはらっていると思いますが、忘れられながらもくもくとはたらいている肝臓や腎臓、膵臓などは、思わず拝みたくなります。拝みたくなるのなら何かしろよと思うわけですが、どうすればよいのか最近、方法論としてわからなくなっている人が多いんです。

 仏教とりわけ禅は、坐禅をします。
 意識は癖が強く、常に一か所にいこうとします。一か所にいって焦点が定まったところから思考が始まります。そして、脳が持っている思考の癖で、おおむね因果律でまとめてしまいます。この世の中に起こることはかなり同時多発的ですが、脳は理論的に因果律で再構築します。特に大人の脳はそうではないかと思います。ご承知のように、ニューロンの数は、生まれる直前が一番多く、生まれた直後にものすごく数を減らします。これはどう考えても退化だと思います。この世で暮らすのに、こんなにニューロンがあったらやりにくいのではないかと思って退化するのではないか。しかも、生まれて間もない赤ん坊のニューロンには鞘がありません。つまり、漏電状態です。漏電ですから一瞬にして全体に伝わります。
 子どもの直感力ってすごいと思いませんか? いいおっちゃんか、悪いおっちゃんかがすぐにわかります。私は子どもにも選挙権をあげたらいいと思うんですね。大人は理屈で騙されますが、子どもは騙されません。何を言っているのかわかんないですが、いい人か悪い人かはなんとなくわかっているような気がします。その子どもの脳のニューロンにどんどん鞘ができて電流が一方通行にしか流れなくなり、十四、五歳で鞘が完成すると言われていますが、それまではある程度漏電が起こります。全体がなんとなくつながっているわけです。電流が完全に一方通行になったとき、論理が使いこなせ、計算ができる脳になるのでしょう。
 中国の道教のなかに、「人間の全盛期は五歳のときである」と考える一派があります。五歳というと、論理も何となくわかり、直観力がまだすごく残っています。五歳のときの自分の写真を大きく拡大して部屋にはれと教えるんです。私は一理あるなと思っています。
 ただ、漏電状態がなくなって、電流が一方通行になり、論理が使えて計算ができるようになることを、われわれはいちおう進化だと考えないと、やりきれないものがあります。ほんとうは、この世の中に合わせるために退化したのではないかという気もしますが、そう考えるとやりきれない。しかし、晩年もう一回鞘がほつれてくると、また漏電がはじまり、五歳くらいの状態に近づきます。それはもしかすると、西洋が考えている、子どもから進歩して大人になり、最高になってまた衰えていくという曲線ではなく、東洋が昔考えていたように、神様からだんだん堕落していって、また最後に翁という神に近づく過程と考えることもできるかもしれません。そう考えると、老化してニューロンの鞘がほつれてくるのも悪くない気がします。

 それはともかく、われわれは坐禅で何をしているのか。意識が一点に絞られると思考が始まると申しました。意識は常に一点に収斂しようとします。しかしそうじゃない世界を目指すのが坐禅です。
 坐禅をするとき、一番簡単な方法は次のようなものです。皆さん片手をだして、片手の中心部に意識を持っていくことは簡単にできると思いますが、両方の手をだして、両方の手の同じ場所に意識を均等に分けていただけますか。つまり二か所を同時に、均等に意識するのです。この状態では、人は思考できません。こんなふうに、意識を拡散したまま集中させる状態が、坐禅の入り口です。
 このような奇妙なことをわざわざするんです。なぜかというと、意識にあんまりのさばらせてはいけないと思っているからです。非常に広い領域を末那識や阿頼耶識がつかさどっているわけですから、意識におとなしくしてもらって、番頭さんたちがやりやすいような状態にするのです。意識は先ほども申しましたように、東京から戻ってきたどら息子のようなものです。まだよくわかっていないのに偉そうなんです。これを黙らせる状態にすると、からだがとても元気になるという実感があります。
 意識の置き所からまずトレーニングします。われわれが思考しているとき意識は頭にありますが、その状態は全身的には不安定です。なぜかというと、意識があるところの血流がさかんになり、そこに重心がいってしまうからです。頭に重心がいくと、マッチ棒が丸いほうを上にして歩いているようなもので、不安定です。私は立っているとき、だいたい全身の真ん中、つまりヘソ下三寸あたりに意識をおくよう心がけています。椅子に座れば、椅子とおしりの接触面に意識を持っていきます。それでは頭が留守になると思われるかもしれません。確かに、大脳皮質のはたらきは衰えるのかもしれませんが、一方で無意識的な直観力が強くはたらく状態になるという気がします。

 からだを安定させるような意識の置き所を常に考えます。これはあまり利用されていませんが、意識は自分で動かせます。一番簡単なのは、目で見たところに意識を持っていくことです。これがごく初歩です。高等技術になりますと、目で見ていない場所に意識を持っていくこともできます。
 坐禅するとき目は開いています。開いていると中心部にどうしても焦点が集まりがちですが、その中心部と視野の輪郭にだいたい均等に意識を分けます。そうすることで言語脳を封じ込めます。つまり思考ができなくなります。しかし、感覚は非常に鋭くなります。醒めているのです。このようなかわった状態を人間は意識を使ってつくることができるということを、最近誰もが忘れがちなのではないか。皆さん何でも見なきゃ損みたいに目をひらきっぱなしです。意識も使いっぱなしじゃないですか。たまに目を閉じたり、意識を鈍らせてみるんです。意識を鈍らせる技術を上手に使うことで、生命体は活気を帯び、活発さを取り戻すという気がします。
 食べたもののエネルギーの三割を脳が使うというのは、これは大変なことです。社長の給料が著しく高いというアメリカ的な会社みたいです。ではなぜ、脳はそんなにエネルギーを使うのでしょうか。やはり、思考している状態が、無駄も含めて動きがものすごく多いためのような気がします。しかし、そう意識にまかせてばかりではいけません。意識は、意識的にかえることができるわけですから、そこをうまく使って脳を休めることも大事です。脳の使い方を変えてエネルギーを節約し、エコな暮らしをするのです。

 長いこと坐禅をしていると、いろいろな方法を試します。たとえば、白隠禅師が考え出したといわれる「軟酥(なんそ)の法」があります。頭の天辺にカモの卵くらいの大きさのバターが乗っていると思って、そのバターがジワジワと溶けてくる様子をイメージします。息を吐きながら、ひたひたとバターが溶ける様子を頭に描きます。これはなかなか大変です。一点にいこうとする意識をあえて動かしつづけるわけです。多少トレーニングが要りますが、息を吐きながら幅広い面を思い描くと、だんだんバターが下へ下へと溶けていきます。場合によっては、喉のなかまで溶けたバターで潤ってきます。このような変化し続ける状態を思い描くことで、なぜかそのバターが浸潤したあたりの痛みがなくなります。ほんとうに不思議です。これがいわゆる瞑想状態の脳です。意識が流動に載っているので、感覚は明瞭だし意識もはっきりしているのに思考不能になります。われわれが暮らしのなかであまりにも意識的に使うことを忘れているのが、この瞑想機能です。脳は意識が思考に用いられるとものすごく膨大なエネルギーを消費しますが、もう一つの非常にエコな使い方がこの瞑想状態なのです。それは思考によって因果的にものを理解するのではなく、全体を直観的に把握できる状態です。その能力は、瞑想状態のときがもっとも優れていると思います。
 では、瞑想状態にはどうすれば入れるのか。別に難しいことはありません。一つは、完全に変化し続けているビジュアル映像を思い浮かべることです。波でもなんでもよいのですが、波だと自分のなかでパターン化し、概念になりやすい。今の溶けたバターがどんどん下にいくというのは、繰り返しがないですから思い描きやすく瞑想状態を招きやすいです。
 常に変化しているものといえば、ほかには音楽があります。音楽に耳を傾けていると、容易に瞑想状態に導かれます。そこでは思考がストップしますし、からだ全体も元気になります。このような脳機能を本来は誰でも持っているのに、われわれはこれを使うことを忘れすぎている気がします。

 脳は幅広い、奥深いはたらきをもっていますし、まだまだ謎がいっぱいだと思いますが、最近の脳の使い方はコンピュータを真似てきているような気がします。もともとはコンピュータが脳を真似たのだと思いますが、今はどうも脳がコンピュータの影響を受けているようです。データをとにかくインプットして集積していき、集積した情報を抱え込んでいることがまずはコンピュータの特徴です。
 私がお寺に戻った今から二十二、三年前に、コンピュータを入れました。その当時、檀家さんのすべてのデータを入れることはオフィスコンピュータでないとできないといわれ、車一台分、二百五十万円ほどのコンピュータを買って、檀家さんが亡くなる前の状況や、死因や末期の状況まですべてインプットしました。むろん誕生日とか家族の名前、年齢など、分かる限りの情報を入れていきました。で、亡くなった方の四十九日とか一周忌などの前になりますと、そのデータをみます。その上で「あのときはあーでしたね、こーでしたね」という話をすると、「いやー、和尚さん、そんなことまで覚えていてくれて。なんてありがたい」と感謝され、また尊敬されたりもします。それにちょっと味をしめまして、しばらくいろいろなことをやっていたんです。しかし、これはやっぱりおかしいですね。われわれは大事なことは覚えていて、さほど大事でもないことは忘れます。ところが、直前にコンピュータをみて法事にでますから、大事でもないことまで思い出してしまう。そんなことまで覚えていてくれて、と感心されますが、いけないですよ、これ。大事かどうかは、忘れるかどうかで計るのが一番です。三年たっても、五年たっても、大事なことは覚えているんです。それが脳のすごいところなのに、その能力がコンピュータのせいで活かせないんです。
 また、せっかくインプットしたデータが何千件何万件という数になりますと、そのうち何かやりたくなります。死因の分析をしてみようか、などと考えだします。うちの檀家さんで六十代で癌で亡くなった方は何パーセントいるんだろう。なんだか意味ありげに思えますが、そういう分析がいったい誰のどんな役に立つのか、よく考えると分からなくなります。じつはそういった平均とか傾向を示す分析がほとんど毎日の新聞に載りますが、じつは個人にとってそういった情報はあまり意味がないんです。しかし、そんな計算ばっかりしていませんか、厚生労働省とか、新聞社も。しかも、平均をだして、あなたが癌になる確率はと個人に言ったりします。あなたは平均なのですか? これは本当に意味のない情報です。
 情報の集積、分析が済むとそれだけではすまなくなり、今度は十年後、二十年後をシミュレーションしはじめます。コンピュータがあって、しかもデータが入れてあるから、何かしなくてはと思ってやるのですが、十年後、二十年後なんてわかりませんよ。わからないのにコンピュータがあるから自動で計算しちゃうわけです。そして、こうしたコンピュータの持っている能力や癖に、脳そのものが引きずられているような気がします。
 三年後はどうか、この子が学校にはいる七年後、八年後はどうなんだろう、この人の給料はいくらぐらいになっているんだろう。こんなシミュレーション、昔はしませんでした。また、子どもができちゃったけどどうしようか、という場合も、「案ずるより産むがやすし」でした。産めばなんとかなると思って産んだわけです。ところが今は、産みません。案じて産まない。計算してみたら、この人の給料じゃこの子の学費までは賄えそうにないんです、となる。急に出世して給料が驚くほどアップするかもしれないじゃないですか。いきなり起業するかもしれない。ところがコンピュータにはそのようなシミュレーションはできません。皆さんの頭もコンピュータと同じように考えていませんか。
 私が住んでいる福島県で、福島第一原発の事故が起こりました。原発事故があって放射線量を毎日実測している人は偉いですよ。しかし、県の職員とかが何をやっているのかと思ったら、ずっとコンピュータの前に座ってるんですね。あるとき新聞の一面に、五年後、十年後、これくらいの汚染が残っているだろうというシミュレーションが載りました。しかしよく見ると、一番下に「ただし除染はしていないものとする」と書いてありました。なんでそんな無駄な計算をするのですか。暇だからです。しかし暇だったら現場に行けと言いたい。もっとからだを使えと申し上げたい。人間の脳がどんどんコンピュータ化しているんです。もっと無意識の直観力がはたらけば、その場に応じたことができるはずです。それを衰えさせているのが、マニフェスト、あるいはマニュアルではないですか。あれは、あらかじめ決めてある原則、そして今を縛る過去からの申し送りです。何かが起こる前に決めたことに、どうして起こったあとに従わなくてはいけないのですか。脳を馬鹿にするんじゃないという話です。人間の脳はもっともっと深い能力を持っているはずなのに、前頭前野があらかじめプランしたものに従えといっているわけです。東京帰りの、番頭の事情を知らない若社長のいうことを聞けといっているんです。それがこのところあまりにもひどい気がします。
 コンピュータのシミュレーションやわれわれの脳の想定は、かなり怪しいですよね。多くの人がそのことに気づきはじめています。しかしわれわれは言葉を便利に使います。シミュレーションとか想定とか言わず、意思だとか、計画だとか、もっと上等な言葉で表現します。計画とか目標なんて言われると、「ああそれは必要だ」と思ってしまうんです。
 でも、あまり計画を立てすぎるのもよくない気がします。細かい計画まで立てすぎることが、人間のその場でしかだせない能力を封じ込めます。若社長が強すぎるとそうなるんです。
 全身を一つの会社にたとえると、いちおう脳は社長だと思います。社長であることは認めるしかありません。そこで、社長の役目を考えると、全社員がちゃんとはたらいているかをときどき見守ることです。社長が見守るというのは、意識をそこに向けてやることです。このことは、瞑想を体験されると実感できると思いますが、意識を向けてやると、そこに血液が集まります。そして、ポーッと温かくなります。このようなことが全身で起こります。ですから、意識をどこにもっていくかということは、漢方的に言えば気血のありかを左右します。気血というのは、気と血液ですね。血液が集まると、そこに酸素が十分に供給されます。意識が向けられないままはたらいているのは、酸素不足で辛い。自分がはたらいているのに社長が意識を向けてくれない。たとえば、夜、十分ご飯を食べ、飲むものも飲んだあとでも、ラーメンが食べたいという方がいます。あれって不思議ですよね。その気持ちはよくわかりますが、ラーメンを食べ、唐揚げまで食べて、すぐ寝たりするんです。これは、社長は寝ているのに、社員は残業している状態です。翌日、「昨日は悪かったね」と詫びるくらいの度量があれば、「社長は忙しいですから、大丈夫ですよ、気にしないでください」ということで許されるわけですが、これがあまりにも続くと、社長の言うことなんか聞いていられない、という状態になります。細胞のストライキですね。こうして社長の言うことを聞かなくなった細胞が、癌細胞なのではないでしょうか。
 癌細胞は、ある見方によれば、低酸素、低体温の状況に適応した細胞です。低酸素、低体温とは意識が向けられていない状態です。意識がそこに向かえば、実感として温まります。ですから意識を動かしてときどきは胆嚢にも意識をもっていく。膵臓も意識し、大腸や小腸もときどき意識することが重要です。意識を向けるだけでそこがポーッと温かくなり、「ああ社長、俺のこと忘れていないんだ」と思って、また元気にはたらいてくれます。私はからだのチームワークというのはそのようになっている気がします。
 からだにとっての一番のご褒美は、ミトコンドリア系では酸素です。血液が十分供給されて、そこから酸素が供給されることでエネルギーを発生させます。これは人生の後半では特にたいせつなエネルギーです。

 われわれ坊さんは、お経を覚えています。戦後、なぜ丸暗記なんて馬鹿馬鹿しいことをやるのだという論調が高まりました。脳科学も今ほど進んでいなかったころの話です。丸暗記させられていたのは、『軍人勅諭』や『教育勅語』だったりしたこともあって、それはナンセンスだと世の中から思われていました。しかしその馬鹿馬鹿しい丸暗記をわれわれは今もやっています。今は別に覚えようとしているわけではありませんが、すでにしっかり覚えています。じつは丸暗記しているものがあるというのは、ものすごい財産なんです。
 いわゆるエピソード記憶は、脳の一点に入っていると言われていますが、長いものを丸暗記している場合、それがどこに収まっているのかを研究されている方がいます。SPECTなどから見るかぎり、長いものを丸暗記して、それを再生している状態では、脳全体の血流が高まります。
 最近、ホログラフィに近いということを研究者が書いているのを読みました。ホログラフィには、ご承知のように、二次元の平面に三次元の情報が入っています。そこにレーザー光線をあてると、三次元の立体が浮かび上がるわけです。情報の入った平面を半分に切ると、たとえば下半身がなくなって上半身だけになったりはせずに、全体が少し薄くなって映ります。四分の一に切っても、八分の一に切っても、どんどん小さくして一ミリ四方にしても、淡く全体が映ります。つまり、ホログラフィとは、一点に全体の情報が入っている点の集合体なのです。もしかすると、長いものを丸暗記しているその記憶は、そういう状態で記憶されているのではと考えている方がいます。
 おもしろいことに、長いものを丸暗記していて、その再生が始まると、脳波がいっきにアルファー波になり、副交感神経優位になって、気持ちが安らかになります。
 もちろん、お経を唱えているあいだ、ものを考えることはできません。しかし、目も耳も鼻も非常に鋭敏になります。お経をあげているときは聞こえないだろうと思ってしゃべる人がよくいますが、お経をあげているときほど耳が聞こえる状態はありませんので、ご注意ください。
 ただ、丸暗記しているものでも、再生し終わったものについて思考し始めたらすぐに間違えます。まだ再生していない先の部分を考えても間違えます。間違わずに再生し続けるのは、結構きわもの的な技なんです。これはどういう状態かというと、未来にも過去にも意識をぶらさない、先のことも考えない、少し前のことにも拘泥しない。そして、自信をもって次がでてくるに違いないと、自信をもったまま唱え続けるんです。そうすると、間違えません。間違うんじゃないかと思ったとたんに間違えるということが、初心者のころはよくあります。間違うのではないかと思うから間違えるのです。絶対間違わないというカラ自信でいいんです。自信ありげに振る舞うと、自信は自然に出てきます。はったり坊主のような台詞ですが、本当なんです。
 長いものを丸暗記して再生している状態は非常におもしろいものですが、そう思っていたとき、テレビで、おもしろい話に触れました。フィギュアスケートの金メダリストである荒川静香さんが、素人のレポーターから「スピンであんなに回っていて、どうして目が回らないんですか」と質問されていたんです。非常に初歩的な、しかし本質的な質問です。どなたか答えられる人いますか。もっと別の言い方だと、「回転しているとき、あなたはどこを見ているのですか」です。一点を凝視したら、視界も回転しますからあっという間に転びます。目を閉じてもだめです。彼女はどう答えたかというと、「常に回転の一番先っぽに目線をやりながら、そこをトン、トン、と確認するように見ます」と。じっと見つめてはいけないんです。常に回転していきますから、新しい景色がでてきます。アッ、アッ、アッというように確認していくのです。見えたものをつかんだら、あっという間に倒れます。タッチするだけなんです。
 スピンとお経は一緒なんです。意識はあります。意識は明瞭にあるのですが、どこか一点にそれが固まってしまったとたんに間違えますし、倒れるんです。流れていく、流れそのものをトン、トン、とたたくように意識を持ち続けます。そうすることで、お経も間違わず、スピンもうまくいくというわけです。

 ふだん意識がしていることも、修練していくと無意識にできるようになります。これを、日本人は「身についた」といいます。坐禅だってそうです。あんな不自然なことはありません。足をクロスさせて、半眼でじっとして動かない。非常に不自然なことをやりながら、自然を学んでいるのですが、慣れるとそれも自然になります。
 浄土真宗と禅宗の考える自然は違います。親鸞聖人は自然で悩まれました。法然さんは、一日に六万回の念仏を称(とな)えたといわれます。しかし一日六万回あげてしまうと、五万回よりいいのかという疑問が生まれます。じゃあ六万五千回のほうがもっといいのか。そうなるともう、自力の世界です。何万回称えなさい、などと言いますと、自然から離れてしまいます。しかしそれなら一回でいいのかというと、一回じゃ概念でしょう。じゃあどうするのか。まあ二、三回でどうでしょうか。そういう姿勢が親鸞聖人にはあります。たまたま同時代の鴨長明も、『方丈記』の最後でそういう振る舞いに出ますね。「両三遍申してやみぬ」って。
 禅宗はしかしそこにこだわることはないと考えるんです。鍛錬して身についてしまえば無意識でできるようになる、それは自然の拡張だと考えています。だから、身についたことを増やしていくことで自然は拡張していきます。意識ですることから無意識ですることに、いろんなことを移行していきます。無意識でできることが増えてきた状態が、その方の人品骨柄にもなりますし、人柄にもなります。意識的である部分にあまり美をみないのが、日本人の美学です。無意識にこうしている、こうしてしまっているというところに、人としての魅力もあるのではないか。
 ということは、やっぱり、前頭前野に宿る意識から始まるしかないのですが、その意識する方向への努力を繰り返すことで、身についていくんですね。そこまでいって、本物です。どら息子も古番頭の声を聞いて皆と仲良くやりながら、からだという会社をうまく運営していってほしいと思っています。
 どうもありがとうございました。

2013/03/30 脳を知る・創る・守る・育む14掲載

タグ: 脳を知る・創る・守る・育む