僧侶になってからの人生が、なる以前の時間よりも長くなった。近ごろつくづく思うのは、この仕事が如何に受け身で、無計画を旨とするか、ということだ。
むろんお寺とて、年間行事の予定は立てるし、私の場合は原稿の〆切もある。しかし最も大きな仕事である葬儀だけは予定が立たず、既にどんな予定が入っていようと関係なく闖入する。こちらも何とかやりくりして無事に終える。日々がその連続と言っていいだろう。
吾が宗は達磨さんが開祖だが、そういえば達磨さんも徹底して受け身だった。今や達磨洞と呼ばれる洞窟に引きこもり、口もきかなかったから口の周りに黴が生えたとも伝わる。伝説は多いが、街頭で布教した話などは一切ない。しかも仏心天子と呼ばれた梁の武帝に自身の進めた翻訳事業や堂塔建立の功徳を訊かれ、「無功徳」と言い放つなど、愛嬌の欠片もない。ただひたすら壁のように黙って瞑想し、弟子となる人材の登場を待ったのである。
私の場合、葬儀が起きるのを待っているわけではないが、原理は同じで、起きたことに対応するだけ。これを達磨さんは『二入四行論』で「随縁行」と呼んでいる。嬉しいことも苦しいことも縁あればこそ、縁が切れれば収まるのだから素直に縁に従うべきだというのである。
そういえば、和語の「しあわせ」は当初「為合」と書き、為す主体は天で、地震や噴火など、ほとんど運命と同意だった。ところが時代が下ると「仕合」と書くようになり、主語は人になる。つまり相手の出方にうまく「仕合わせ」られたら「しあわせ」というわけだ。もとより日本人の感じる幸福は、受け身の対応力次第なのである。
思えば臨済禅師も「求心歇(ぐしんや)む処即ち無事」と言い、「無事是れ貴人」とも言って求心がやんだ状態こそ貴いと訴える。どうやら禅の見方は、日本人の幸福観に通底していたのである。
ところが我々は、おそらく日本人に限らず、どうしても目標や目的などというものを持ってしまう。若ければ尚更だが、夢を持てと迫られ、時にはこれが自分のミッションだなどと思い込む。理性の第一の仕事は未来の想定らしいから、これは仕方ないのかもしれないが、無益な勝負がここから始まる。
寒山詩にも「閑(いたず)らに争い競うを用いざれ」と言い、また蘇東坡居士(蘇軾)は「柳は緑 花は紅」と謳い、各自それぞれなのだから同じ土俵に乗るなと訴えるのだが、皆笛吹きに従(つ)いてゆくように、確実に一緒の土俵に乗っていく。そうして目標を定めたがゆえの閑らな勝負に突入し、最近の自殺者は高校生以下だけで毎年五百人を超えている。
夢や目標を持つなと言ってもおそらく無理だろう。しかしそれを持った途端、網の目のような選択肢が無意味になることは知っておいたほうがいい。我々は目標への最短距離を自動的に選んでしまうからだ。
私はこれまで『まわりみち極楽論』や『なりゆきを生きる』、『流れにまかせて生きる』など、およそ主体性のなさそうな本ばかり上梓してきた。しかし積極的な受け身においてこそ、主体性は起ち上がるのではないか。仮の目標は、出逢いによっていくらでも変わる。
芭蕉は「よく見れば薺花咲く垣根かな」と詠んだ。ぺんぺん草は知っているし、なんとなく白い花は見た覚えもあるが、薄紫の端正な五弁花は初めて近くから見たのだろう。なぜ「よく見」たのか。それは芭蕉がウォーキングではなく散歩していたからだ。歩くことさえ数を数え、目標に向かう現代人は、もはや薺の花など見ることもない。
ある心理学者によれば、道草を食う子供は食わない子より、認知判断能力が一・八倍高いという。いったいどうやって調べたのか知らないが、更に彼女が言うには、迷子になる子はならない子より、二・八倍もやさしいというのだ。こうなると集計分析の方法を訊きたくなるが、要はいま行こうとする目標が仮のもので、もっと面白い出逢いの可能性が常にあることを、肌感覚で知っているのだろう。迷子は道草の延長上だが、そこでも未知なる出逢いを信じるからやさしいのだ。
ここまで書いたところでお葬式の連絡が入り、じつは四時間ほど間が空いた。お知らせを聴き、戒名を考え、位牌や塔婆などを書いて戻ってきた。むろん読み返したうえで迷子にならずに続けようとしているのだが、やはり四時間前と同じ気分ではない。しかしこれもご縁なのだし素直に受け容れ、それによって原稿も豊かになると信じたい。
人はたまたま生まれ、ただ生きて、ただ死んでいく。しかしそうは思えないからこそ戒名も付け、葬儀もする。だから丁寧に故人の足跡を遺族から聴くのだが、けっしてまとめすぎるまいと、いつも思う。
最近國分功一郎氏の『目的への抵抗』『手段からの解放』という本を読んで意を強くした。目的をもつことで、あらゆる行為が手段に成り果てることを憂えている。
しかしここは原稿も仕上げなくてはならないし、目的そのものは否定せず、「セレンディピティ」の話ではどうだろう。十八世紀イギリスの作家・政治家のホレス・ウォルポールが造ったこの言葉は、簡単に言えば、探していたもの以外との幸運な出逢いである。
結婚も職業選択も、多くは偶然の出逢いによることが多いわけだが、たとえば約百年後のルイ・パスツールは、この出逢いを見落とさないためには「構えのある心」が必要だと言った。そう、目的は常に仮のものだと深く認識し、道草を厭わない心だろうか。
あ、引導の香語の一部がふいに浮かんできた。この文章を仕上げる目的からは主客転倒だが、これもセレンディピティ。そういえば私の好きな荘子も「適(たま)たま得て、(道に)幾(ちか)し」(斉物論篇)と言っている。
2025/05/01かまくら春秋2025年5月号 No.661 55周年記念特大号