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養老孟司 考えるヒト 解説

自然史派のplayfulness

 養老先生の本を読む楽しさは、まず何より専門性と総合性が共に味わえることだろう。簡単に言えば深くて広い、ということだが、しかも古きを踏まえ、新しきも充分取り込み、その都度新たに統合されている。思えばこれは、大脳皮質の連合野の優れた働きそのものではないか。
 しかしその連合野の働きを、先生は無批判に賞讃するわけではない。それどころか、意識や無意識の恣意性を「重みづけ」と表現し、ヒトがそれぞれ勝手に描く世界像を、脳の中の幽霊とまで言う。我々が現実だと思い込んでいるのは、所詮そのようなバイアスのかかった虚構であり、社会や文化もそれを要請しているというのである。
 ここに至って世界や現実への見解は仏教と全く重なってくる。『般若心経』にいう「五蘊皆空」も、要は五感からの入力じたい「重みづけ」の結果だから本来的な自性などないという話だし、ブッダの体験した解脱も、「行(サンスカーラ)」つまり無意識に自分の都合に沿わせてしまう傾向から脱却することだ。
 つまり先生は、「行」や「解脱」などという仏教用語を用いずに、じつに平易に仏教を説いてくださっているのである。
 ヒトを情報系として見るという見方も、じつは唯識に通じている。唯識では、五感からの入力によって生ずる前五識の次に意識を置き、その奥にマナ識、さらにアラヤ識を措定する。これは無意識というより潜在意識、深層意識などと呼ぶほうが相応しい深い情報系である。アラヤ識はユングの集合的無意識にも重なる。
 アラヤ識が遺伝子のようなもの、と言えば、間違いなく唯識学者は承服しないだろう。なぜならアラヤ識は物質ではないからである。しかしそれでも、脳より深い情報系として遺伝子が語られる本書には、唯識学者も同じような「重みづけ」を感じて頷くのではないか。
 総合的な本書は、感覚入力の曖昧さや恣意性を説いたあと、今度は出力系としての筋肉の収縮の問題に向き合い、さらには生物の合目的性と試行錯誤の話に進む。科学の素人にしてみれば、これだけでも充分興味深いのだが、養老先生はたとえばこの「合目的性」に「意識」を絡める。意識はたえず合目的性を検証しているというのである。哲学者の井筒俊彦氏は『意識の本質』において、意識に特徴的なのは、なにより方向性をもつことだと言うが、この「方向性」と養老先生のいう「合目的性」はかなり印象が違う。先生の語り口にはおのずと「人生」という視点が入り込んでくるのである。
 「合目的思考が成り立たない状況を、われわれはたとえば危機と呼ぶ」といった表現にもそれは明白である。我々はその辺から次第に、先生の危惧されること、意識中心社会の危機管理の本来的な弱点などにも気づいてくるのである。
 とにかく先生の問題意識は、常に社会や人生に繋がっている。「あとがき」にも、「意識や感情まで話がいって初めて、一般の生活と脳とが直接に結合することになる」と仰っているが、脳から始まった話は結局我々の生活に最も密着した意識の問題に収斂していく。
 どの章もそうだが、さまざまな学者たちの説が歴史的に紹介されるのがありがたい。意識については、アメリカの「意識学会」での多岐にわたる主張が紹介されるのだが、先生自身はそのなかのどれを選ぶというわけでもない。「私が自分で流派を立てるとすれば、(意識の議論に対する)自然史(誌)派」だという。「自然史派にとっては、考え方はあればあるほど面白い」というのだが、この緩やかなスタンスこそ養老流、先生の真骨頂ではないだろうか。
 たとえば科学的な知識は最終的な「真実」に到達するのか、という問いに対し、先生は「もちろん私はそうは思っていない」という。しかしそれでも、「いま知られていると思われていることが、将来のより優れた考えのもとになるかもしれない」とお考えだから、先生は網羅的に学びつつしかも大らかなのである。
 「意識」についての叙述は、時にハイデッガーの『存在と時間』を思わせ、また道元禅師の『正法眼蔵』「有時」をも想起させる。サラリと書かれているが読み応え充分である。しかし先生の願いは、ここでも哲学の追求ではなく、とにかく日常生活の回復なのだ。どんどん現在化する未来から芳醇な「今」を取り戻そうと、先生は「虫取り」を続け、参勤交代を勧める。同じ志で坐禅をするのが馬鹿馬鹿しくなりそうだが、主旨は一緒なのである。
 じつはここまで書いたところで先生の「文庫版あとがき」が届いたのだが、「お坊さんが箒で庭を掃除する理由」が「あれは寺をきれいにしているわけではない」とあり、驚愕した。それを見破る人が、お坊さん以外にいたことに、私は驚いたのである。このことは、かなり真面目に話しても、世間の人々には解ってもらえないことが多い。先生は、からだを動かすのだとおっしゃるが、要は箒を使うときの坊さんたちの意識の置き所を考えてみていただきたい。現実に毎朝箒で掃いていると、「きれい・きたない」という概念が真っ先に払拭され、先生が書かれたように、無常なる風光に箒もろとも溶け込んでいく。これこそが庭掃除の最大の功徳と言えるだろう。
 だいたい、きれいにする目的だけだとしたら、特に今の世ではそのまま放置して天然の肥料にすべきだと難ずる輩が出てきて、おそらくこの議論は円満な結論に至らないだろう。何が正しいかではなく、これは結局自分がどう生きるかという問題なのだ。
 『考えるヒト』で先生が指南していることも、結局は生き方の問題なのである。自然(=無意識)への指向を、playfulness(遊び心) と呼ぶとすれば、我々は試行錯誤を遊びつつ自己組織化せよと、促されているのではないか。宇宙も脳も養老先生も、playfulnessあればこそ、深く、広いのである。
 ところで先生、うちの庭広いんで、ご一緒に庭掃きしませんか?
 そう誘っても、先生はきっと少しだけつきあってからニッコリ笑い、さっさと虫取りに出かけてしまうに違いない。

2015/10/07 考えるヒト 文庫版

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自然史派のplayfulness
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