一級建築士として活躍していた村越さんは、近所の公園でジョギング中に脳出血を起こし、入院生活を余儀なくされる。六十歳という働き盛りのことでもあり、そのショックは大変なものだっただろうと推察する。
この本は、村越さんが五ヶ月間励んだ「リハビリ」の世界を余すところなく、しかもユーモラスに紹介してくれる。担当だったお医者さんをはじめ、看護師さんや理学療法士、作業療法士や言語聴覚士までが文章を寄せている。最後のほうでは病院の厨房従業員一同からのメーッセージも載っており、村越さんがいかに理想的な人間関係を病院で築いたかが想像できる。
面白いのはこの本の成立が、村越さん自身の絵画への目覚めに依っていたということだろう。言語聴覚士の篠田真未さんが書いていた。村越さんは「進路を決めるころ、本当は絵描きになりたかった」らしい。
果たせなかった夢が、脳出血がきっかけで叶ったとすれば、それはリハビリテーションの功徳というものだろう。生来の絵心に目覚めた村越さんは、辛いリハの現場を「鳥獣戯画」に準えて描きつづけた。このアイディアこそが、この本を普遍的なものにしたのだと思う。
だいたい、病院内の人々がそのまま描かれたとしたら、生々しすぎてまず敬遠されるだろう。辛い話ほどユーモラスに描かれるべきだが、鳥獣たちの組合せがそれをあっさり実現してくれる。狐が熊の「立ち上がり」や「歩き」を支え、猫が熊の「入浴」を介助する、それだけで見ものではないか。自らを「カエル」に描いた場面も多いが、それは原作への尊重のほかに、元の世界に「カエル」ことへの切望を意味していたのではないか。元の世界への帰還が叶ったわけではないのだが、退院の際のカエル夫婦の姿には万感が表れていて感動した。
初めは食札に「ごちそうさま」を言うべく描き始められたようだが、食後にその場で筆ペンを使って描いたのだろうか。最初の頃は動物一匹、いや、野菜の絵だったりもしたのに、次第に複雑な絵柄になっていく。動物と植物の組合せもあり、動物もたいてい親子など複数が普通になってくる。なるほど著者の言うように、「当たり前」はどんどん更新されるのである。
絵の変化を眺めていると、リハの進捗状況も感じられ、心強い気持ちになるのだが、村越さんにしてみれば、あくまで「重大な喪失」という思いとの戦いでもあったのだろう。新宿に構えていた設計事務所も閉鎖し、仕事は大幅に縮小せざるを得なかった。「リハビリをすることで障害の重さを実感し、不安や悲しみで辛い思いをする」人もあり、村越さんもそんな一人だったと、看護師の下山さんも書いている。
しかし村越さんはやがて「生涯リハを続けること。それが私にとっての新しい『当たり前』」だという諦念をもつ。喪失感の空白はやがて創作の歓びに満たされ、周囲を巻き込んでテンションアップしながら「みんなよくなれ!」の思いに繋がっていくのである。
独りではできないことも、応援団と一緒ならできる。そのことを熟知した著者が、今度は応援団長としてまとめたのがこの本である。喪失は時に創作への大いなるエネルギーに転換する。『鳥獣りは』はそのことを再確認させてくれる。
2020/01/15 理学療法ジャーナル