空中の道路

 「交通」という言葉は、もともとコミュニケーションを指して云う言葉だった。心を通わせることである。また「空中の道路」などなかった時代、イギリスのアダム・スミスはお金(紙幣)のことを「空中の道路」と呼んだ。
 現在は様々な手段の「交通」が発達し、「空中の道路」である高速道路もその大きな一翼として機能している。お金と心が交通することが、道路本来の機能というものではないだろうか?
 道とは終わりのないものとされる。反対語は路地である。しかも道は、曲がっていて当たり前、くねくねと紆余曲折を経ながら進むのが人生という道だろう。
 道路の場合も、なぜか曲がっていると安心する。あまり真っ直ぐだと、なにか大勢の人がそのために泣いたり苦しんだりしたのではないか、と思ってしまう。もっと云えば、直線には、権力を強く感じてしまうのである。
 実際、運転していても曲がっていたりアップダウンがあったりすることは苦にならない。むしろ直線で平坦すぎると、興味が続かず眠くなってしまう。自然の景色に沿って曲がったり上下したりする道路こそ美しいと感じてしまうのだが、変だろうか?
 道路はある意味で経済のための流通路でもある。だからなくてはならないが、あまり細かく行きわたりっすぎてもどうかと思う。アダム・スミスは土地を離れた「空中の道路」が増えすぎると、人々の精神が怠惰になるのではないかと危惧している。むろんそれは金融と分業の発達に対する危惧なのだが、なんだかそれは道路についても云えるような気がする。例えば家々の庭までが流通道路とみなされてしまったら、生活の場がとても落ち着かない環境になってしまうし、だいいち騒音や大気汚染という弊害もついてまわる。それに、あまり行きわたりすぎると人間、たしかに工夫をしなくなってしまうのではないだろうか?
 体に喩えると、「空中の道路」は骨格とか太い動脈・静脈に当たるのだろう。だからむろん必要不可欠なのだが、我々の活動の多くは毛細血管の通った筋肉によってなされる。つまり高速道路以外の山道や砂利道も重要だと思えるのだ。田園のなかのそうした細かい田舎道でこそ、むしろ心の交通はなされるだろうから、「空中の道路」はそこへ至るための大切な導入と考えたい。骨粗鬆症や動脈硬化にならないよう、メンテナンスにも力を注いでほしいものである。

2002年 Spring号 JH郡山NEWS掲載

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