行脚のための「三種の神器」

 日本神話の三種の神器は剣と勾玉と鏡だが、蒙古人の場合はこれがもう少し現実的になり、蒙古刀と食器とタバコになるらしい。
 修行する僧侶には使用を許される十六の品目があり、それ以外を「無用の長物」と呼ぶが、行脚のときに必ず携帯すべきものは三種類あり、これが言わば雲水の三種の神器だろう。これは現実的と言うべきか、どうか? その三つとは、剃刀と経本と五段重ねの食器である。
 袈裟文庫と呼ばれる箱の外側に三つ、それぞれ別な風呂敷に包んで括り付け、反対側の雨合羽と振り分けにする。だから袈裟と雨合羽も重要な品目として数えるべきなのかもしれない。
 その品物から判断すれば、乞食の元祖として食器を持ち歩くというのがなんともいじらしい。よその家から托鉢で食べ物を頂戴したり、あるいはそのお宅でご馳走になることもあるわけだが、その場合でもマイ食器を出すわけである。もちろんマイ箸もセットで持ち歩いている。そこには、いじらしさだけではなく、逞しさも感じられるだろう。逞しさの源泉はやはり剃刀と経本だろう。つまり頭を綺麗に剃り、お経がよめれば、食べ物には自ずとありつけるはずだ、というような自信さえ感じられはしないだろうか?
 しかし最近は行脚する雲水がめっきり減ってしまった。その宿泊を受け容れるお寺が極端に減ったのも大きな原因だろう。お寺といえども最近は普通の家庭感覚が強いから、見知らぬ人が突然訪ねてきても泊められないというわけである。大きなお寺では直接警備会社に連絡がいくような警報設備をそなえたところもある。雲水の行脚は、懐かしくゆかしき旧習となりつつあるのである。
 一方で四国の八十八ヵ所巡りなど、一般の方による行脚はむしろ盛んになっている気もするが、どうなのだろう? 弘法大師は確かに偉大だが、あれだけ決まったコースを巡るのはちょっと行脚のイメージとは違う。風に任せてではなく、どうも目標達成に向けて一定のコースを歩き続けるあの巡礼は、日本人に合った文化なのかもしれない。しかも他人から命じられた目標という気があの場合しないだろうから、恍惚感も生まれやすいのだろう。彼らの三種の神器は知らない。しかし必ず持っているのは「御朱印帳」と呼ばれる証拠物件である。それは海外旅行と似たような、思い出作りの短期旅行とも見え、どうしても行脚という感じはしない。
 本物の乞食さんたちはどうだろう。これは恐らく一般の家庭では殆んど見かけないだろう。つまり彼らは、今やお寺専門に巡り歩いているのである。うちのお寺では単に金品をあげることはせず、あくまでも労働の報酬として礼金を渡すのだが、定期的にやってくる人々に訊いてみるとけっこう広範囲に歩いている。どこのお寺でも受け容れるわけではないからだが、例えば山形県と秋田県、福島県の複数のお寺を股に掛けて歩いているという人も何人かいた。寝場所は無人駅である。彼らの中には仕事があるかどうか、最近は携帯電話で尋ねてくる人が現れた。どうも乞食にあるまじき所行という気がする。
 巡礼の人々も別にあてなどなく歩くわけではないし、夜はきちんと宿に泊まるようだ。本物の乞食さんは無人駅に寝てはいるがまるで契約労働者だ。しかも乞食の元祖である雲水も行脚はしなくなった。
 ドイツがジプシー(ロマ民族)に定住すべきだという法案を通したが、やはり行脚とは反社会的な行為なのだろう。それほど管理しにくい人間はいないからである。
 私は道場からまっすぐ寺には戻らず、神戸や山梨県などを行脚したが、今では本当にあの頃が懐かしい。それはする人がいないという意味ではなく、私自身の変化に対する思いだ。恐らく今では小説を書くことが、その反社会的行脚の続きなのだろうと思う。一枚刃のシックで異形をつくり、人の解らないお経など唱えていると、時々あるまじきことも想ったりしてしまう。どうも「ごひいき」というより、必需品の話になってしまったが……。

2002/08/08 週刊文春 私のごひいき第77回掲載

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