誰の作かは知らないが、禅門では「昨日より 今日よりも今 桜かな」と詠う。桜を愛でる際のコツと考えてもいいが、じつは人生そのものの味わい方なのかもしれないと思う。目の前に咲く爛漫たる桜のように、私たちは今に咲いているのである。
むろん昨日と明日とを見通しながら、そうした時間の流れにおいて自分を見つめる日常感覚も、なくては生きていけない。しかし我々は、時としてこの「ゆらがない今」という非日常的な時間を必要としているのではないだろうか。
毎年我が三春町の多くの桜を見に、信じられないほどの人々が訪れる。私は渋滞をモノともせず滝桜をめざす車の行列に、いつもそんなことを思うのである。これは一種の祭なのだ、と。
祭とは、神や仏をまえに、一切の社会性を脱ぎ捨てることだろう。社会での責任とか家庭での役割とか、あるいは年齢差や性差も、桜の前では関係なくなる。その意味で桜は、なまじな祭よりもあるいは祭らしいかもしれない。桜が昔から、「さ乙女」と同じく「さ」と呼ばれる女神が降り立つ場所(「くら」)と呼ばれる所以でもある。
人によっては桜を追って、南から北へ旅する人も毎年いらっしゃる。最近では立派なカメラを持った女性も増えてきている。そんな人と話していると、私はふと彼らの日常のことが心配になる。祭を永く続けるということは、よほど日常が病んでいるのではないかと、余計な心配をしてしまうのである。
祭は短期間であるからこそエネルギーを噴出できるのだし、それゆえにこそ日常を清める力を持つのだと思う。とことん力んだあとに自然に弛緩が訪れるように、日本人は祭で疲れさえとり、日常に復帰する活力を得るのではないだろうか。だからあんまり永く桜を追う人々が心配なのである。
しかし永い祭もやがて深い疲れを癒やし、いずれは終わる。桜を巡礼するほどに深く病んでいても、いずれ終わることが分かっているから祭になるのだろう。
禅門ではまた「巡礼の 帰り土産や もとの顔」とも詠う。祭にしても巡礼にしても、もとの顔で日常に戻ってくるからこそ尊いのだ。そこまで心配しても始まらないことだが、また今年もちゃんと日常に戻ってほしいと思う。桜だって間もなく目立たない木に戻るのだから。
2003/02/02 朝日新聞 TRAVEL「神々の冒険」