目の悟り 本来の自己「現す」のが真骨頂 (鎌倉-禅の源流展)
新聞紙上でどの程度文字が読みとれるか疑問だが、これは大覚禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が建長寺で弟子に示した言葉である。「無位の真人」(あらゆる立場や役をはなれた本来の自己)を「見る」ことを要求するのだが、『臨済録』の「看」ではないこの「見」という文字に注目していただきたい。
後半には「金剛経」と道元禅師の「正法眼蔵」から似ていながら反対の言葉が引かれる。「もし諸相が非相なりと見れば如来を見る」という前者と「如来を見ない」とする後者である。
この矛盾はいったいどういうことだろう。
じつは「見」は「現」の代わりとしても使う。だから前者は自分が如来になって「現す」のであり、後者はそうなってしまえば外側に如来など「見ない」ということだから矛盾はないのである。
当然前半でも、禅師は「無位の真人」を見ることではなく、現すことを望んでいるのだ。禅の真骨頂はこの「現す」ことにある。
2003