お墓とお骨のゆくえ

 カッコウの場合、モズやホオジロやオナガなど、ほかの鳥の巣に卵を産みつけてしまう習性がある。托卵というのだが、だいたいは仮親の卵より先に孵るため、カッコウの雛は本来そこで孵るべき卵を巣から押しだしてしまうらしい。
 人間の場合、まれにそれに類したこともあるが、まあ心配するほどではないだろう。
 しかしだからといってすっかり安心していると、とんでもないことが起こるものだ。モノは赤ん坊ではなくお骨なのだが、近所の公営墓地では最近托卵ならぬ「托骨」に頭を痛めている。
 職員の方の話だと、たぶん夜中に来ているのではないか、というのだが、カッコウ犯は、例えば渡辺なら渡辺という自分と同じ姓の墓地を捜し、しかもお参りの形跡があるような、綺麗なお墓を選んでお骨を入れていく。むろんお骨は孵ったりしないから、本来の渡辺家のお骨を追いだすことはないけれど、すっかりそのまま渡辺家の一員になりおおせてしまう、というのである。
 たしかに、ふつう納骨スペースを開けて中を確認する機会など、次に誰かが亡くなるまではない。しかもその機会がきても、「あれ、一つ多いような気がするけれど、……まさか、ねえ」と、誰でも自分の記憶力のほうを疑うはずである。そこがカッコウ犯の狙い目でもあるわけだ。
 以前はよく、山手線の網棚に忘れられたお骨、などが話題になった。しかしあれは決して忘れたのではなく、置いていったのである。その類の人々が、それはいくらなんでも無責任と感じたのだろうか、それとも複雑な親族事情を抱えながらも、せめて他人にでも供養してほしいと願ったのだろうか。今最も新しい納骨方式がこの「托骨」らしいのだ。
 東京ではかなり高価な墓地でもすぐに売れ切れる。本当は永代使用権を買うのだから「売り切れ」という表現は問題だが、しかしなにかそんな印象があるくらい、ロッカー式でもどんなに狭くてもすぐに品切れになるようなのである。ビルの中の納骨施設などは、まだ正式には墓地として認められてはいないのだが、需要があれば商売は成り立つ。儲かれば手を出す人もいる道理で、墓地認可がなされないまま少しずつ増えているらしい。おそらく、認可も時間の問題だろう。
 ところで、亡くなった人のお骨の所有者が特定されるという事態は、じつはちょっと異様な事態かもしれないと思う。
 お骨が大事に埋葬されるのは、単に故人の遺品だから、というだけでなく、そこに何かが宿っていると考えるからだろう。もしそうじゃなくて単なるモノだというのなら、単なるモノの収納のために一千万以上もする墓地がじゃんじゃん売れることこそ異常である。しかし、何かが宿っているのだとしたら、はたしてそれは、誰かに所有されてもいいのだろうかと考える。そう考えるのが自然ではないだろうか。
 おそらくはそんなふうに考えた人々が「自然葬」という海や山への散骨を考えたのだろう。しかしこれも、亡くなった人が全員そうするようになったらある種の公害だろう。そうした公共性と里山作りの視点から、最近では「樹木葬」という方法も生まれている。お骨を特定の雑木林の一角に埋め、その上に、ある意味で墓標がわりになる潅木を植えるのである。
 お骨になにかが宿っている、という考え方は、日本人ならなかなか捨てられないのかもしれない。もともと中国伝来の考えだが、これもインドまで遡れば火葬によって全ては四散すると考えるから、単なる燃え残りの骨は川に流し山に捨てるのである。
 つまり中国仏教や日本仏教ではお骨をモノと割り切れないが、南伝仏教圏では、例えばお骨が残らなかったとしてもなにも問題はないことになる。おそらくオウム真理教(アーレフ)がお骨に特殊な電磁波を当てて完全に無くしてしまうことを思いついたのも、そうした考え方があってのことではないだろうか。
 ともあれ埋葬法は宗教が決める。行政がそれを決めるのは信教の自由を侵すことになる。しかしこの問題は、今後は国民すべての智慧の見せ所として考えていかなくてはならないのだと思う。
 ところでそれはそれとして、お宅のお墓、大丈夫ですか? 托骨されてませんか?

 

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