桜並木をそぞろ歩き

 生まれ育った寺の本堂の前に枝垂れ桜があった。江戸時代に植えられたものだろう。幹が直径1メートルほど。子供のころに登って遊んだのが、桜についての古い記憶である。
 1989年の春。その木が枯れて、最後は1本の枝にだけ何輪か花を咲かせた。満開の後、幹を親指で軽く押したら、ドドンと倒れた。花を咲かせた直後に成仏した形となり、合掌した。
 福島県にあるその寺に戻って17年。冬の間から「今年の第一輪はいつか」が話題に上る土地で、花見の季節には人が押し寄せる。だが、私は満開をすぎた桜が好きだ。花びらが文字どおり風花となって舞い、フワーッと自分自身がほどける気がする。
 桜の語源のひとつに、農業(田)の神「サ」が降り立つ場所「クラ(座)」という説がある。たしかに桜には、非日常性を感じさせる力がある。世阿弥の『花伝書』を読んでも思うが、あの世とこの世の魂の出入りを可能にするような気配を感じる。
 思い返すと、桜の季節には、酔っぱらって道路で寝るなど非日常的なことをした記憶もある。以前「宴」という小説で、妻の希望で夫の骨を食べて供養する妻子を、共に食した僧侶の目で描いたが、その小説でも、満開の桜を背景に置いた。
 桜はいっせいに、互いがシンクロするかのように咲く。そこに、人生は単純な因果律を超えてさまざまなことが絡み合う、というイメージも感じる。
 桜並木では花びらを通して日の光がやわらかな波に思える。自分が自然の分身であり、絶えず流動する「あはれ」な存在であることを思い出させてくれる。

2004/03/26 週刊朝日掲載

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