日曜論壇 第1回

タケノコ狩りと自立について

 ふつうタケノコは、「採る」ものであって「狩る」ものではない。しかし竹藪が広く、食べきれない分を宅配便で知人に送ってもなお出てくる余分については、もう「狩る」しかない。うちでは、「やっつける」とも言っている。柄の長い鎌や、長靴を履いた足そのものが武器になる。エイヤっと、切ったり蹴ったりして廻るのである。
 竹にまで育ってしまうと、これを切る手間は狩る場合の何十倍にもなる。竹は地下茎をどこまでも伸ばし、竹藪じたいが常に広がろうとしているから、放っておくと庭も境内もどんどん竹だらけになってしまう。だから、狩るのである。
 それにしてもいろんな親子がある。竹と筍、蕗とふきのとう、スギナと土筆。しかし竹ほどすぐに、親そっくりになるものも珍しいかもしれない。
 草食動物などは、いつ肉食獣にやられるかわからないから、生まれ落ちると大抵すぐに立ち上がる。そんな自立の早さがタケノコにも感じられる。しかし考えてみれば、彼らは全部地下茎で繋がっているから、親からの栄養をずっともらい続けている。実は自立なんて、していないのである。
 しかし切られると、途端に自立しようとする。自ら独り立ちしようとする意志がタケノコに芽生え、それがアクと言われるものになる。だから切られて栄養補給されない時間が長いほど、あるいは光を受けて竹になる意志が強くなるほどに、アクも強くなる。つまりアクが強いということは、大人に近づいた証拠なのだと思う。
 子供のアクが強くなることは、親にとって複雑な気分を伴う事態だ。アクが強くなったのに一人前扱いしないと反抗期になる。これは、もう根を切り離しても生きていけるということだから、昔はその時期に元服という儀式をしたのだろう。
 草食動物の自立の早さに比べると、ヒトの自立は極めて遅い。一人で歩けるまでに一年もかかるのだから世話がかかる。この、独り立ちまでの期間に定数を掛けるとその生物の寿命が算出できるという学者もいる。ヒトの独り立ちが遅いのは、寿命も長いのだから当然だが、ここで申し上げている自立とは、生物としてではなく社会的な意味である。そうだとすれば、ヒトが自立するのはいったいいつなのだろう。
 学校では、最近よく「自立」という言葉を目にする。できるだけ自主的に考えて判断し、自立した暮らしを考えることは大切だろう。親離れは、たいていの動物において親の側の意志でなされる。その下準備をしておくということだろう。
 しかし日本には、これとは正反対の考え方もある。子供の健全な成長を祈る五月に柏餅を食べるのは、柏の葉が、次の葉が出るまで枯れても落ちないその「後見ぶり」が見事だから、というのだが、この柏を目出度いと見る習慣は、どう考えたらいいのだろう。
 なんだか日本には、竹のない西欧で考えられた「自立」とは違った在り方があるような気がしてきた。竹の地下茎や柏の後見を含みこんだ関係性のなかの生き方が、あるのではないだろうか。
 タケノコ狩りなどをしていると、変なことを考えるものだ。私のアクは、かなり強いとは思うが、私はいったい自立しているのかどうか、未だに自信がない。「お蔭さま」とか「ご縁」を大事に考えていると、自立という言葉がよくわからなくなるのである。

2004/06/06 福島民報掲載

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