日曜論壇 第4回

帰りなん、いざ!

 つい先日まで、福島県立美術館で「田園の夢」と題する展覧会が開かれていた。その展覧会の副題についていたのが標記の言葉である。
 これはご存じ陶淵明の「帰去来の辞」の一節。どうして、どこに帰るのかというと、「田園まさに蕪(あ)れなんとす」。つまり荒廃してしまった田園に、今こそ帰ろうというのである。
 展覧会には、いわゆる農耕を営む田園の風景や、そこで作られた野菜などの面白い絵が数多く展示された。伊藤若冲の「野菜涅槃図」、ほかに葛飾北斎や円山応挙の作品もあり、とても面白い展覧会だった。
 しかし展覧会そのものの質の良さにもかかわらず、客の入りは期待したほどでもなかったらしい。一生懸命だった学芸員の増渕さんと原さんに私は言った。「やっぱり、田園の真ん中で田園の展覧会しても、あまり来ないのは仕方ないですね」。
 そうなのである。よくよく絵の作者を見ても、ほとんどは都会生まれや都会育ち。
田舎で生まれたとしても一度都市に住んだあとで田園を描きはじめる。陶淵明の場合も、三十代を挟んで十数年、都市での役人としての生活をしたからこそ「帰りなん」と思ったのである。
 都市と自然は、我々の脳と体にも準えることが可能だろう。大脳皮質の左右半球は、四歳くらいまでは脳梁で繋がらず、その時期は左右の機能差もないまま、より古い辺縁系や脳幹部に従属して働くらしいが、この時期がいわば自然。そこから言葉を覚えだし、意味を考えながら論理を扱うようになると、すでに脳梁も太く繋がって大脳皮質は独立した仕事を行うようになる。この、大脳皮質に振り回されるのが人工的な都市の暮らしなのである。
 養老孟司先生は、都市は意識で作られ、自然はからだにある、とおっしゃるが、それはまさにこのことだと思う。つまり人が都市に別れを告げることは、同時に論理や言葉の世界から、もっと古い脳機能へと重点を移すことだ。もっと古い脳機能といっても解りにくいと思うが、それは言葉や計算以前の、いわば素朴な感情や情緒、あるいは直観の世界だ。よく田園の絵には犬や鶏が描かれるが、そういった動物たちの世界と云ってもいいかもしれない。
 都市型の、人生をコントロールしていこうとする生き方から、コントロールできない自然を楽しむ世界観への転換が、「帰りなん、いざ」だろう。思えば田園というのは、自然そのものではない。ある程度人為が加わった、ちょうど自然と意識との接点に当たる。二宮尊徳は「この秋は雨か嵐か知らねども今日の勤めに田草取るなり」と謳ったが、これがまさに田園の暮らし。ときおり荒れ狂う自然には逆らえないが、できるだけ人事は尽くそうとするのである。
 陶淵明はじっさいに鋤鍬を執り、酒を愛し、菊を愛して安らかに人生を終えた。今から千数百年もまえに、中国がそんなに都市化していたのかと訝る人もいるだろうが、今も申し上げたように都市化とは基本的に頭の使い方の問題なのである。人間の賢しらなコントロール欲求はすでに紀元前から老子に「有為」として批判されている。
 老子は「無為自然」を説いたが、我々にはせいぜい「田園」がいいところ。半ばはコントロールしながら、半ばは起きたことを楽しむしかないのだろう。
 「田園の夢」にさほど客が入らなかったことは、一瞬、まだ我々の周囲に田園が溢れているから、と錯覚するが、じつは日本の食糧自給率は僅かに四十%。すっかり荒廃している田園に気づかないだけだとしたら、これはかなり怖い。

2004/12/12 福島民報掲載

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