元来 仏法に害なす者
たいていは「恩恵をこうむりながら味方を裏切る者」といった意味で使われるが、もともとは「仏法に害をなす者」。獣偏を省いて師子と書くが、これは経本における習慣で、獅子と同じと思っていい。獅子は本来は架空の動物だが、一般にはライオンが想定される。仏法そのものの例えにもなり、それを護持する人材の意味でも使われる。
「宝積経」というお経には、以下のようにある。「師子の身中に自ら諸虫を生じ、かえってその肉をくらう」。ここでの虫とは、どう見ても悪い虫だ。ライオンの中の虫なら、サナダムシかギョウ虫か。いずれにしても仏法の敵のことだ。
しかしどうもこの言葉、最近は「師子身中の虫にならなくては達成できない」というふうに、目標達成のためには今の環境に耐えつつ時を待つべきだ、といった意味でも使われるようだ。つまりここでは、孤独な信念を貫く人が「虫」になり、師子は食い破るべき敵なのだ。
たしかに仏法の担い手である僧侶が堕落したような場合、外から批判しても仕方ない、という理屈は成り立つ。「それなら自分がしてみりゃいいだろう」と、私もよく言われた。学生のころなど、近所のお坊さんに生意気なことを言うと、よく「師子身中の虫になってみろ」と、言われたものだ。
しかし師子の身中に入ってしまうと、見える状況はがらりと変わる。人はそれを変節と見るかもしれないが、そうではなく、外から見ていた師子と、師子そのものが違ってくる。のっぺりと勝手に塗りつぶしていた外見とは違い、もっと個別で違いのある内実が見えてくるのだ。
さらに詳しく見てみると、誰もが、「虫」のようにも見えてくる。もしかすると、師子とは虫の集まりではないのか。ギョウ虫や回虫がいると花粉症にかからないというが、異質な存在の複合体だからこそ師子は強いのではないか。そうも思えてくる。たぶん虫を排除しようとするから、虫にやられるのである。
2005/01/05 愛媛新聞ほか 暮らしの中の仏教語第1回