師子身中の虫

元来 仏法に害なす者
 これから八回にわたり、暮らしの中に溶け込みながら誤解されてもいる仏教語を紹介したい。まずは、標題の「師子身中の虫」。
 たいていは「恩恵をこうむりながら味方を裏切る者」といった意味で使われるが、もともとは「仏法に害をなす者」。獣偏を省いて師子と書くが、これは経本における習慣で、獅子と同じと思っていい。獅子は本来は架空の動物だが、一般にはライオンが想定される。仏法そのものの例えにもなり、それを護持する人材の意味でも使われる。
 「宝積経」というお経には、以下のようにある。「師子の身中に自ら諸虫を生じ、かえってその肉をくらう」。ここでの虫とは、どう見ても悪い虫だ。ライオンの中の虫なら、サナダムシかギョウ虫か。いずれにしても仏法の敵のことだ。
 しかしどうもこの言葉、最近は「師子身中の虫にならなくては達成できない」というふうに、目標達成のためには今の環境に耐えつつ時を待つべきだ、といった意味でも使われるようだ。つまりここでは、孤独な信念を貫く人が「虫」になり、師子は食い破るべき敵なのだ。
 たしかに仏法の担い手である僧侶が堕落したような場合、外から批判しても仕方ない、という理屈は成り立つ。「それなら自分がしてみりゃいいだろう」と、私もよく言われた。学生のころなど、近所のお坊さんに生意気なことを言うと、よく「師子身中の虫になってみろ」と、言われたものだ。
 sisiしかし師子の身中に入ってしまうと、見える状況はがらりと変わる。人はそれを変節と見るかもしれないが、そうではなく、外から見ていた師子と、師子そのものが違ってくる。のっぺりと勝手に塗りつぶしていた外見とは違い、もっと個別で違いのある内実が見えてくるのだ。
 さらに詳しく見てみると、誰もが、「虫」のようにも見えてくる。もしかすると、師子とは虫の集まりではないのか。ギョウ虫や回虫がいると花粉症にかからないというが、異質な存在の複合体だからこそ師子は強いのではないか。そうも思えてくる。たぶん虫を排除しようとするから、虫にやられるのである。

2005/01/05 愛媛新聞ほか 暮らしの中の仏教語第1回掲載

トップへ戻ります