人権とテトラポッド

 ふだん、あまり「人権」というようなことを考えて暮らしてはいない。恵まれているのだろう。たまに女房と喧嘩したりすると、急に「基本的人権」なんてことを憶いだす。おそらく人権に限らず、権利というものは、圧迫されたときに想起されるものかもしれない。
 私がしたいと思ったことを自由にするぶんには、権利も義務もないだろうと思う。
実際にしたくて始めたのかどうかよりも、その場合は自分がどう考えてしているのかが問題になる。禅僧は、「好きでしてるんだ」と思うクセがあるから、たぶん権利と義務についての意識が薄いのだろう。それでも義務として強引に何かを押しつけられたり、あるいは理不尽な言葉で罵倒されたりすれば、そうした思考操作に失敗することもある。そうなると、権利を叫びたくなる。やっぱり圧迫感こそが権利の生みの親ではないかと思う。
 それなら人は、何によって圧迫を感じるのか。圧迫とは何か。
 おそらくそれは、自然災害ではない。今回の新潟県の地震の被害は大変なものだが、天災が人権を侵すとは、あまり考えない。体育館で三千人も寝ているという状況は、寒いしトイレも不充分だ。食事だってなかなか行き渡らない。たしかに人間らしい暮らしではないのだが、それは地震のせいではなく、たとえば危機管理を考える行政組織やその後の処理を担当する部署の不行き届きだと、やがて認識が変化する。そうなると、人はその現状が誰か人間たちのせいだと思う。寒さも、トイレが臭いのも、人間のせいになる。そこで、人権という意識が芽生えてくるのである。基本的人権が守られた状態を、我々も要求する権利がある。国や県などの行政は、それを保障する義務がある、と。
 あくまでも権利などというものは、人間にしか存在しない。猫があんなに長時間寝るのも、犬があちこち勝手にマーキングするのも、べつに権利だからではなく、それは生理というものだ。しかし毎日散歩をするのが習慣になっている犬だと、その時間になると、まるで自分には散歩する権利がある、というような顔で我々を見上げることがある。我々はそう思ってしまうのだが、これだって本当は我々の思い過ごしだろう。してみると、我々にはそんな思い過ごしをしてしまうほどに、権利意識が深く沁みついているということだろうか。これはちょっと怖いような気もする。
 なぜ人間は、権利という意識にそれほど馴染んでしまったのか。
 それは人間だけが、理不尽に人間を圧迫するからだ。またたとえ実際に圧迫するのでなくても、人間だけはそれを誰かの圧迫だと考える能力がある。そのことを、我がことであるだけに、人間という生き物はよく知っているのだろう。
 最近、明治初めの廃仏毀釈にまつわる資料を読む機会があった。ヒットラーのホロコースト、中国の文化大革命、ポルポトの大虐殺など、人類は忘れ得ない歴史をいくつも刻んできたが、我が国の廃仏毀釈というのもなかなか凄いものだ。
 神社というのはもともと殆んどお寺の境内にあり、お寺と仲良く存在していた。いや、神社という建物ができたことじたいが仏教の影響なのである。しかし明治政府が国家神道で宗教を一本化することに決めたため、両者は無理に引き裂かれ、神社は寺院から独立しようとする。それまで裏山じたいがご神体だ、なんて言ってた神社にも、同じ鏡がご神体用に配られた。
 真っ先に実力行使が行われたのは仏教の大元締め、比叡山のお膝元、日吉山王権現社だった。これはもともと伝教大師の勧進になる仏社なのだが、すっかり新しい理屈を信じ込んだ神官たちは兵士や地元坂本の住民を引き連れ、日吉権現の本殿に乱入。仏教関係のものを取り除くという名目で荒れ狂い、仏像、経巻、仏具を悉く破壊した。残ったのは伽藍だけだったと云われる。
 平田神道の強かった鹿児島や宮崎、水戸界隈では更にひどく、あちこちに「坊主と不浄の徒、入るべからず」といった看板が立てられ、「若い僧侶は兵士に使い、老僧は教員などに用い、寺院に与えてある禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に頒布する」と通告する。江戸末期にはすでに、それが藩の基本方針になるのだ。還俗させられた僧侶は鹿児島県だけで三千人ちかい。
 いったい、こんなことが本当にあったのだろうか、と思う。殺された僧侶だって大勢いる。私の住む福島県にもいるが、宮崎県では崖から突き落とされた僧侶もいるし、大分県では皆殺しにあって僧侶全員が埋められた寺もある。このほか、水戸、佐渡、富山、信州などが特に激しかったが、奈良や京都だって例外ではない。奈良の五重塔は二十五円で一旦は売られたのだし、京都では府知事が采配をふるって仏具を供出させ、それを鋳つぶして五条大橋などの橋材にまで使った。ほんの百三十数年まえの出来事である。
 信じられないかもしれないが、人間の思い込みというのは、これほどに恐ろしいのである。
 だからこそ我々には、権利というような概念が必要になるのだろう。
 最近は世界遺産などという決まりも出来、延暦寺が焼き討ちされることも、高野山や五重塔が売られる可能性もなくなったかに見える。しかし人間というのは、油断できない。
 怖いのは人間の本能ではなく、本能をどこまでも増幅してしまう大脳皮質だろうと思う。これは人間に特徴的に発達した部分であり、ここでさまざまな価値基準が捏造されるのである。
 ブッシュ大統領は、イラクと北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んだ。こうした悪とか善を捏造するのも同じ場所だ。それによって、人は正義感さえもったまま無数の寺を打ち壊し、お地蔵さんの首を落としたのだ。
 やはり人権というものは必要なのか、そこまで人間の怖ろしさを実感すると、これは深く納得できる。夫婦げんか程度ではない圧迫に対し、人は切実な思いで権利を主張してきたのだと思う。
 私は「人権」という言葉を想うとき、どういうわけか、波打ち際のテトラポッドを思い浮かべる。
 むろんさっきも述べたように、人権とは自然現象相手には使われない言葉だ。高波で家が壊れようと、津波で死んでしまおうと、それは人権には関係なかったはずである。自然現象ならコントロールできないし、仕方がないと、諦めもつくからだ。
 しかし多くの歴史的人災を憶いだすにつけ、どうしてもそれは高波や津波と同じものではないか、と思えてくるのだ。
 諦めなさい、と言いたいわけじゃない。しかし嘗て起こった惨事に対する怨みを持ちつづけ、声高に人権を叫ぶ日々を、私は送りたくない。申し訳ないけれど、高波や津波だと思うようにしたいのである。
 世の中にはしかしそんな我々に代わって頑張ってくれている人々がいる。それは知っているし、感謝もしている。
 しかし私自身は人権など、忘れて過ごしたいのである。
 テトラポッドも一つでは心許ない。たくさん並んだテトラポッドが、波にも打たれずに太陽を浴びているのが一番いい。

2005/01/20 人権のひろば掲載

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