「社長、ちょっと寄ってくださいよ」なんて今の客引きは誘うが、昔は「旦那(だんな)さん」と呼びかけた。この「旦那」、本来は「檀那」と書く。梵語のダーナパティの音写である。
もともと仏教教団を経済的に支えた布施者のことだから、まあ今の使い方もそれほどおかしいわけじゃない。ただ同じお金なら、夜の巷(ちまた)などに注ぎ込まないでお寺に寄付すればなお素晴らしいということだ。
檀那は、もっと細かく言うと、檀という木と、その周りに生える那という草の関係性のことだった。那は檀があるから日陰ができてうまく生育でき、檀は那があるお陰で地面の湿気を保ってもらえる。理想的な布施しあう関係なのである。
そのことからもわかるように、布施は相互的でなくてはいけない。財施に対してもお返しの法施(ほうせ)がなくてはならないのである。
そのことを忘れると、「坊主」などと呼ばれるようだ。「坊主」がいつから悪い言葉になったのかは定かじゃないが、それはきっとイケナイ僧侶が現れたときからだろう。もともと人を直接呼ばず、住んでいる場所にちなんで呼ぶのは丁寧なことだった。だから「坊主」も「お前」も、本来は悪い言葉じゃない。「御前様(ごぜんさま)」の頃は最高によかったのである。
しかし人々の期待に応えないような僧侶が増えたからだろうか、僧侶にあるまじき僧侶、という意味で、「坊主」を更に逆転させた「主坊(ずぼう)」の複数形、「ずぼら」なんて言葉も生まれる。やはり檀と那との関係性を忘れた結果なのだろう。
一般の家だって、夜の街に出かけて「ごぜん様」になったら「お前このやろう」と言葉の意味は変わってしまう。よくよく心しなくてはならないと思う。
それにしても、男の子のことを「坊主」と呼ぶのはなぜだろう。「うちの坊主は手癖が悪い」なんて、レストランの隣の席から聞こえてきたらギクッとする。そりゃあギクッとするほうが悪いのだが、なにもわざわざ孫を「坊主」と呼ばなくてもよさそうなものだ。
「檀那」と呼ばれたら何か魂胆があるものと用心しなくてはならないが、「坊主」の場合は、そう呼ばれないよう用心したい。
2005/02/05 地方新聞各紙