立ったり坐ったりするとき、「どっこいしょ」と呟(つぶや)いたりすると「年だなぁ」なんて冷やかされる。あるいは自分で自嘲のわらいを漏らしたりするわけだが、この言葉、もともとは「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」がなまったものだと云われる。
富士山に登るとき、「六根清浄、お山は晴天」と呟きながら登る人々はいまだにいるが、どうもその人々が疲れてくると「ろっこんしょうじょう(六根清浄)」がくずれ、それが周囲の人には「どっこいしょ」と聞こえてきたらしい。
六根とはむろん仏教語で、われわれが世界と接する六つの器官。『般若心経』にも出てくる眼・耳・鼻・舌・身・意を指す。それによって感知されるのが六境で、色・声・香・味・触・法である。
なぜ六根は清浄でなければいけないのか、というと、余計な迷いを生みださないためだが、じつは仏教では、この六根やそれによって引き起こされる六識を本当のところ信じてはいない。六根が六賊とも呼ばれ、六境が六塵とも呼ばれるゆえんである。
だいたい感覚器から入ってくる情報は、脳によってまとめられる。見える景色はもちろん、声も香りも味も感触も、普段その対象をどう考えているかに左右されるのである。「あばたもえくぼ」「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、その辺の事情を端的に物語っている。要するに、我々が見たり聞いたりする世界は、「ありのまま」などではなく、思い込みの延長なのである。
思い込みは若いときほど強い。年をとって知見が広がり、体験も豊富になると、一概な判断はしにくくなる。そしてそれと同じことが、もしかすると極度の疲労コンパイの状況でも起こるのではないだろうか。そうなって呟かれる「どっこいしょ」は、もしかすると本当に六根清浄なのかもしれない。
そう考えれば、これは決して恥ずかしがる言葉ではない。集団に余裕があれば、いじめが起こり、個人に体力気力の余裕があると、うじうじ思い悩んだりもする。しかし登山で限界近くまで体力を消耗したら、そんな無駄な力は使っていられないだろう。
余計な思惑のなくなった「どっこいしょ」の眼に、この上なく美しい太陽が昇る。
2005/02/19 地方新聞各紙