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「海を飛ぶ夢」映画評

尊厳死の奥に深い人生と愛

 観(み)おわってしばらく、奇妙な高揚感に包まれた。
 ある人々に対してこの映画は、尊厳死に関する映画だと紹介することも可能だろう。主人公のラモンは25歳のときに引き潮の海に飛び込み、海底に頭を強打して首から下が不随になってしまう。実家のベッドの上だけを住処(すみか)に、ラモンは詩を綴(つづ)り、家族の世話になって二十数年を過ごす。そんな彼がギリギリに選択したのが、自らの尊厳と自由のために死ぬことだった。
 むろん生活全般にわたって兄嫁や甥(おい)の世話になっている彼は、自分だけの力では死ぬことさえできない。尊厳死を支援する団体や「心の友」になる女性もいて、実際に映画は法廷での尊厳死承認を求める闘いまでも含む。車椅子(いす)が嫌いなラモンだが、この時ばかりは老父と甥によって改造された車椅子に乗り込み、バルセロナまで向かうのである。
 法廷での結末は申し上げないが、裁定まえには自殺を思いとどまるようラモンに説く司祭が登場する。その言動をあまりに滑稽(こっけい)なものとして描いたアメナーバル監督は、明らかに尊厳死についても支持する立場なのだろう。しかしこの映画に私が感動したのは、そうした社会的な問題とは関係ない。
 なによりもこの作品には、人間が生きている。老父、兄、兄嫁、甥という家族ばかりでなく、自らも不治の病を宣告されている弁護士フリア、尊厳死協会のジェネも、それぞれの価値観でラモンに愛をそそぎ、それぞれの人生を深く生きているのが伝わってくる。
 この映画は家族の物語でもあるし、むろん愛の物語でもある。だから私のように、尊厳死には懐疑的であっても充分(じゅうぶん)すぎるほど感動できるのだろう。
 周到な構成と緻密(ちみつ)な言葉。私は途中、何度も登場人物たちの言葉を噛(か)みしめて反芻(はんすう)し、そのたびに「この余韻にもっと浸りたいのに」と、テンポの良さが恨めしく思えたものだった。「帰ってほしい?」「いや、タバコを吸わせてほしい。たのむ」こんな会話で万感の愛を伝えさせる脚本は、錬金術のように素晴らしい。
 むろん映像も、音楽も、文句のつけようがない映画だが、わけてもこの映画の力は、ラモンの生の質に支えられていると云(い)えるだろう。むろんそれは、充実した過去の思い出のことではない。周囲の人々との温かでユーモラスな交流だけでなく、彼はじつにリアルな「内なる世界」を生きているのだ。冒頭とラストもそうだが、ラモンはその世界で愛するフリアとも触れあう。それは思い出でも想像でもなく、ラモンのリアルな生の現在なのだ。
 生が最後まで尊厳であればこそ、その死も尊厳たり得る。彼の生は、英語標題のTHE SEA INSIDEを抱えることで充実し、より尊厳になっていくのだ。「裡(うち)なる海」とは、深い愛そのものでもあるのだろう。
 それにしてもラモンがついに望みを遂げようとするとき、その場に付き添うのが最愛の女性ではないところがあまりにもニクい。私はそこに、作者の技量と、人生を見る眼(め)の深さを感じないではいられない。そのことで、おそらくこの作品は何倍も忘れ得ぬものになったのだと思う。

死の選択が波紋

若い時の事故が元で、二十数年間寝たきりの生活を送るラモンは、優しさと知性、ユーモアを兼ね備え、周囲の人間をひきつける。だが、彼の選択は死。その決断は弁護士のフリア、シングルマザーのロサ、一緒に暮らしてきた兄夫婦ら、ラモンを愛する人々に波紋を巻き起こす。
監督は、スペインの若手アレハンドロ・アメナーバル。実在の人物をモデルに、盟友マテオ・ヒルと共同で脚本化した。
映画は、昨秋のベネチア国際映画祭で審査員特別賞と男優賞(ハビエル・バルデム)、2月にはアカデミー賞外国語映画賞を獲得した。

2005/04/14 朝日新聞

タグ: 尊厳死, 映画