世の中にはさまざまなコレクターがいる。切手やコイン、ワインのラベルなど、趣味的なものだけでなく、世に学者と云われる人の多くも、もしかするとある種のコレクターなのかもしれない。他人の言説をまず集め、その反証をコレクションしていくという側面が、学問にもあるのだろう。
たしかに物事を全体的に捉えるためには、膨大なコレクションを一覧することは有効だろう。コレクションの上に立った総論は、我々に俯瞰的な視野を与えるに違いない。
しかしともすると、コレクションは集めること自体が目的になりやすい。どういうわけか、コレクションには、人の情熱をかき立てる要素があるようなのである。
そのような情熱が、最近また「四国八十八カ所」とか「坂東三十四カ所」巡りに向けられつつあるようだ。情熱はどんどんエスカレートし、四国八十八カ所を巡り終えても、「今度は裏を返す」などと、すぐに目標は上方修正されていく。
ほとんど「悲願」という雰囲気だが、これもある種のコレクションだろう。こうしたコレクションには、基本的にキリがなく、それこそがコレクションの魔力なのかもしれない。達成しても次の目標をすぐに設定するから、安らかさはいつになっても訪れないのである。
このところ、うちのお寺などにも「御朱印ください」という方々が多くみえる。御朱印というのは、本来は本尊さまをお参りした印としていただくものだし、そういう係がいるのは余程大きな観光寺院だった。当然、ご本尊さまをお参りしなければ頂けるものではないし、お参りしたとしても小さな寺院では対応しかねるものなのである。
しかしそんなことはどこ吹く風。彼らの目的は、より多くの御朱印を集めることになっており、もはやお寺の事情もご本尊さまも関係ない。「私はもう五百集めた」なんていう科白も聞くことがある。当然、彼らの持参する使い込んだ御朱印帳にそれは書き加えられるべきなのであり、こちらが葬儀中でも法要中でも、御朱印は容赦なく求められるのである。
うちのお寺では、基本的には坊さんである私と父と、そして手伝っていただいているもう一人で対応しているが、法事で三人とも出払っていることだって多い。そこで、半紙を四つ切りにして予め書いて準備しておくのだが、なかには「それなら要りません」と断る方もいる。
この際申し上げておきたい。どこでも御朱印をくれるのが当然、と考えている方が多いが、それはとんだ勘違いである。
御朱印は、もともとは拝観料をいただいてご本尊を解放している寺が出すものだろう。むろんそうでない寺だって、場合によっては客の要求に応じることもあるが、それはあくまでも「ご好意で」ということなのである。
さらに困るのは、たとえば法事の合間に忙しい思いをして書いて差し出すと、必ずといっていいほど、「いくらですか」と訊かれる。そんなふうに値段を決めている観光寺院は、ごく少数に過ぎないのだが、御朱印という習慣じたいがその少数派のものだから、誰もその習慣を疑っていない。しかしあくまでもそれは定価ではなくお布施であるべきだ。正直なところ、御朱印といえども書く手間は色紙とさほど違いはしない。ときに「三万円です」と言ってみたくもなる。まあそれは冗談にしても、どうか御礼の額面は自分で決めていただきたい。
そして更に申し上げれば、我々寺院は、御朱印コレクションではない、静かで深い拝観を望んでいるのである。
2005/04/24 福島民報