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剃髪への目覚めと、その後

 初めて頭を丸めたのは、小学校三年のときだった。これは綽名が「ぼうず」であったため、それに反抗する気分からだろう。「おうさ、坊主になってやろうじゃないか」という程度の、少年とすれば少し自虐的だが、勇敢な冒険だったのだと思う。
 高学年ではまた長髪に戻したが、中学になると男子は全員坊主頭が強制された。生徒会の議題は、毎回のように髪型と制服の自由化についてだったように記憶している。私は生徒会長だったのだが、在学中に自由化は実現しなかった。いろんな意見を聞いたが、なかで父の言葉が印象に残っている。
「組織であれば、なにか強制されるのも致し方ないが、なにもわざわざ坊主頭にすることはない。こっちは好きでしてるんだから」
 だから父は、強制するならむしろ髪の長さ二十センチから二十五センチまでとか、そんなふうにしたらどうかと言うのだった。非常に開明的な意見であるようにも思えたし、子供っぽくバカバカしい意見にも感じられたものだった。
 剣道をしていた高校時代は中途半端に伸ばし、大学以降は思う存分伸ばしてパーマもかけた。ヒゲを伸ばした時期もあり、じつにむさ苦しいものだった。不思議なことだが、このむさ苦しい時代が、どうも精神的にもむさ苦しく思い返されるのである。
 次に頭を丸めたのは、これは本気で僧侶になろうと思った二十七歳のときだった。師匠である父に、と云いたいところだが、じつは最初は理髪店に行って剃ってもらった。いわばこれが、自覚的な剃髪への目覚めだったはずだが、今思い返すと、理髪店の鏡のなかに憶いだすのはなぜか青々した頭ではなく、思いつめた自分の眼差しだ。
 道場では四と九のつく日の朝、雲水が二人一組になってお互いに剃り合う。わざわざ世間と違った異形になるため、自分で剃ると孤独を感じすぎるという理屈を聞いたことがある。
 それ以後、私は二十年以上頭を剃りつづけたことになるのだが、じつのところ、なぜ剃るのかは未だに明確にはわからない。よく町で擦れ違う子供などに、どうしてお坊さんは頭剃るの? なんて訊かれることがある。そこで考え込んでも仕方ないから、「これ、究極のオシャレ」などと答えるが、はてさて本当はどうなのだろう。
 なぜ剃るのか、それを考えつづけるために剃る、といえば哲学的かもしれないが、これで哲学的であることもなかなか面倒だ。剃って二日もするともう剃りたくなる。むさ苦しいと感じるのだ。
 剃っても剃っても生えてくる髪はまるで煩悩のようではないか。だから剃るのだ、と云った僧侶がいたが、むさ苦しいと感じる範囲が増えたのは、煩悩が増えたのではないか。
 ああだこうだ書いてみたが、結局は今日も、なにも考えずに頭を剃るのである。ああ、秋風が、人より少し早く身に染みる。いとおかし。

2005/10/01 月刊正論

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