最近、どうも屋根裏にネズミがいるようだ。本堂の屋根裏にはハクビシンがいるからそちらには行かないのだろうが、庫裏ではときどきネズミが何かを転がして遊んだりする。
やはりネコもイヌもいなくなってしまったからだろう。昔はネコが近所で鳥を捕まえ、誉めてもらいたくて私の枕元まで運んできたりしたものだ。寝ぼけ眼の前にキジがいたこともあり、ぎょっとしたものだが、今となれば非常に懐かしい。ネコは、やはり居るだけでネズミ除けとして絶大な効果があったのである。
ところで母ネコは子ネコに、一見教育と思えるような行為をする。子ネコのために、初めは瀕死のネズミを持ち帰り、子ネコが育っていくにつれて次第に軽傷のネズミに変化させ、子ネコにとっての捕獲の難易度を上げるのだ。子ネコの頃にこの経験をしないでしまうと、おとなになっても決してネズミに忍び寄って襲うことはしないらしい。これは教育なのだろうか?
進化心理学者のプレマック先生によれば、これは教育ではないのだそうだ。なぜなら、母ネコが子ネコの成績のよしあしを判断していないからである。学習の早いネコは早々に解放し、できの悪いネコには更にネズミを持ってきて補習をさせたりするようなら、初めて教育と呼べるのだそうだ。教育という言葉は、ずいぶん責任を伴った意味で定義されているようだ。
教育とは呼べないにしても、しかし母ネコがネズミ捕りを「教えて」いることは確かだ。プレマック先生はこれを、生物学的なしくみとしての「適応」と呼び、そのための「訓練」と理解する。しかもネコの親が教えるのは唯一この技術だけで、敵からの逃げ方や求愛の仕方などは教えず、本能に任されているらしい。
しかしヒトの場合は、こうした訓練の範囲が広く、しかも長く続く。ただヒトも動物として見れば、これもいつかは終了しなくてはならない。子供が一定水準に達したと親が判断すれば、そこで終わるのが動物としての通常の在り方である。
ほかの動物よりも多くの項目について訓練し、教育を受けなくてはならないのがヒトではあるが、しかしその項目については人種によってもバラツキがある。たとえばクン・サン族という部族は子供に坐り方や歩き方を教えるが、食べられる植物の集め方などは教えない。一方、西洋社会では、服の着方や正しいテーブル・マナーは教えるが、坐り方や歩き方は教えない、という具合である。
その民族として、何が必須な教育項目かがはっきりしないと、当然ここで終わりという時期が来ない。教育項目じたいが揺れ動き、定まらない状態を、最近では「生涯教育」という美名で呼んだりもするが、項目によっては若いうちに習得しないとどうしようもないこともあるだろう。おとなになってからでは、ネコもネズミに興味を示さないように、である。
近頃私のところに、子供のことで相談したいという親御さんからの連絡や訪問が重なったのだが、どうも親自身が、ヒトとして習得すべき項目を決めきれずにいる、という感じが強い。だから子供への心配もキリがなくなるのだ。この技術や考え方に関しては教えた。だからそれ以外についてはそれを応用し、おまえが自分の裁量で決めればいい、と、言えないのだろう。
学校での教育内容にしても家庭での躾にしても、自信をもってその項目を特定することこそ急務ではないだろうか。
2005/10/30 福島民報