「白」を信じる

 東北を「白い国」と表現するのは、きっと雪のイメージなのだろう。しかし私にとっての「白」は、もっと様々な印象を喚起する。
 まずは菩提心の「白」。悟りとしての菩提を求める心が、白衣観音の衣装になる。花嫁衣装の白無垢も、何色にでも染めてくださいと云いながら、観音さまのように総てに応じる「白」なのだろう。
 御縁に応じるときに邪魔になるのが自我と呼ばれるものだが、仏教ではこの色つきの自我を滅却することで、本来の自己が立ち上がると考える。当然それは清浄な「白」だろう。お茶で云う「白露地(びゃくろじ)」も、露わになった清らかな心のことだ。
 総ての色が合わさると「玄(くろ)」になると云われるが、光の場合は「白」になる。思えば不思議なことだが、同じ構成要素が全く趣を変えるのはよくあることだ。だいたい光自体、粒子を見せたり波になったりする。煩悩と菩提も、じつは同じ構成要素の別な在り方であるにすぎない。僧侶が白衣の上に黒衣を着るのは、そういうわけだろうか。
 白黒はっきりせよ、と云うけれど、時としてそれが反転するとしたらどうだろう。
 それでもはっきりせよ、と云うならば、私は白と答えよう、疑わしきは信じてみる。それが「白い国」の人々の態度でもあったはずだ。
 永い冬の間じゅう光を待ち望む人々の、それは性(さが)であるのかもしれない。

2006/01/01 白い国の詩 冬号掲載

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