仏教者が読んだ「美しい国へ」

安倍新内閣を採点する

 文春新書『美しい国へ』を読んだ。こういう形で自分の考えを事前に提示する総裁が、これまでいたのかどうか寡聞にして知らないが、考えようでは、これは劇場型政治のあとの、脚本家あるいは演出家政治の始まりかとも思う。いったいどのようなシナリオで「美しい国」にするというのか。
 本の巻末には「わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ」とある。おそらくタイトルは、この文章から命名されたのだろう。
 そして新総裁は、だからまだまだこの国には秘められた可能性があるのだし、我々は日本人であることを卑下するより、誇りに思い、勇気と英知と努力とによって未来を拓く汗を流そうと、鼓舞するのである。
 大変素晴らしいが、私にはこの「美しい国」という意味合いが、今ひとつピンと来ない。ここでは私の願う「美しい国」のイメージも絡めながら、新総裁に願うことを申し上げてみたい。
 「美しい国」であるためにはまず国土をどうするのかが問題だろう。
 農業そのものは、自然を消費する一面ももっているわけだが、この産業の重要さゆえに保たれてきた自然は膨大である。外国から成田に戻ったとき、「ああ、美しい国だ」と思うのは、なにより多くの緑と、綿密に区画された大小の田圃や畑のせいではないだろうか。新総裁はこの第一次産業を重視するというのだから頼もしい。
 これまでの農業政策は、いわば減反すればお金を出すという情けないものだった。田圃をやめればお金が貰える。立場を変えれば「お金あげますからね、田圃やめてもらえませんか」薄笑いを浮かべながらそんなことを云う人は、よく宮澤賢治の作品にも嫌な商人などで登場するタイプだ。そういう政策が続いてきたのである。
 これがどれほど農民精神とその誇りとを踏みにじるものであったかを、せっかく長靴を履いて視察したのだし、新総裁には感じ取ってほしい。そして休耕した田圃がその後どうなるのかも、よくご覧いただきたい。
 人口二万人の福島県の私の町で現在千三百三十戸ある農業人口も、二十年後には驚くほど激減するだろう。単なる減反でなく、転作や余剰米の使い道に知恵を絞るべきだろう。
 食料の自給率が四十%まで落ち、多くの国々から食べ物を売ってもらう状況のなかで、持てる誇りとはどんな誇りなのだろう。
 たしかに食べ物を乞う乞食にも、昔はそれなりの誇りがあった気がする。しかし今や、誰も恵んではくれないから、乞食はお寺や神社専門に廻り、誇りもなく縋(すが)ってくるのである。そんな日本では美しくない。
 札束で横っ面を撫でたり叩いたりするやり方は、農業政策に限らなかった。合併しないとお金やらないよ、大規模にならないと補助金は出せないよ、と小泉政権は言い続けた。国民はもうすっかり札束で叩かれることに慣れ、もはやマゾヒスティックな快感さえ感じているのだろうか。支持率平均五十%という数字はどうもそう思うしかなさそうだ。
 しかし福祉や幼児教育の現場にまでそうした競争原理を持ち込んだしっぺ返しは、今後新総裁が被ることになるのだろう。私も講演のためそうした関係者に会うことは多かったが、大規模施設に補助を厚くするやり方への反発は大きく、多くの現場で前総理は呼び捨てにされていた。そこでは、支持率の数字はウソではないかと、本気で思ったものだった。
 中小規模で、その地域の実情に根ざした福祉や幼児教育の施設が生き残れない現状を、新総裁はどうしてくださるのだろう。

教育バウチャー制度の非

 小学校に教育バウチャー制度とやらを導入し、人気があって生徒が集まる学校に補助金を増やそう、なんてことを経済界は考え、エリート養成を進めて国力を上げようと考えているようだが、まさか新総裁はそんなこと、受け容れるとは思えない。
 義務教育から大きな格差が生じてしまうなんてあり得ないはずだし、第一そんな差別は美しくない。
 政治・経済・宗教が、それぞれ平等・自由・博愛を体現すべきことは、フランス国旗を見なくたって解るだろう。しかし政治が平等を放棄し、経済における自由競争が多数の敗北者を産みだす現状では、より多くの博愛が必要になる。新興宗教も隆盛をきたすはずである。
 しかし何より新しい総裁は、「再チャレンジの可能な社会」を目指すとおっしゃっている。そんな新総裁が、わざわざ小学生に格差を作るはずがないではないか。著書でも「わたしたちが進めている改革は、頑張った人、汗を流した人、一生懸命知恵を出した人が報われる社会をつくることである。そのためには公平公正、フェアな競争がおこなわれるように担保しなければならない」と、安倍氏は自ら書いている。同じように頑張ろうと思っても環境の格差が人為的に設けられているという事態は、ゆめゆめ作らないはずである。
 第一、フェアな競争といっても、競争となれば市場原理がはたらくことは、小泉政権でつぶさに見てきたはずである。「勝ち組、負け組として固定化、あるいは階級化してはならない」、とも安倍氏は書いているのだから、まさか安易なエリートづくりや教育環境の差別化に励むはずはなく、きっと教育レベル全体の底上げに力を注いでくれることと思う。
 国土や教育における美しさは、要するに自然と人為との兼ね合いにあるのだと思う。人を選別する人為の行き過ぎは、ある種の自然破壊であることを、きっと新総裁もご承知だろう。
 もう一つ、美しさの大切な要素は、実現可能かどうかはともかく、神々しいまでの理念を継承することにある。
 憲法九条は今や現実的ではない、という実状は私も理解する。しかしたとえば我々仏教者は、実現不可能な目標を掲げることで現実を深みのあるものに転換し、そこにある種の美を醸成するのだ。衆生は無辺だけれども、その無辺なる衆生のすべてを救いたい。そんなこと、現実には無理に決まっているではないか。しかし現実的でないからといって、その目標は無意味なわけではない。実現不可能な理念を目指すのは、美しいのである。
 現実に理念を合わせたら、現実は雪崩をうって一気に一つの方向に流れるだろう。
集団的自衛権も、崇高な憲法のせいで安易には行使できないからこそ美しいまでに苦しい。あれは仏教の殺生戒にも似た、素晴らしい戒律なのである。
 もしも崇高な理念を捨てれば、その流れの先にはアメリカとイギリスが揉み手しながら待っている。ご著書を読みながら、この両国への批判的な言葉が一切出てこないことは些(いささ)か気になった。しかし安倍氏は日本を「長い歴史と独自の文化をもつ国」とおっしゃるわけだから、きっと明治以後の欧米を真似た国民国家としてだけでなく、「やほよろづの国」としての独自の文化を自覚されているのだろう。
 安倍氏の父親である晋太郎氏は、中曽根総理のもとで四期三年八ヶ月外務大臣を務めた。ゴルバチョフを日本に招くキッカケを作ったことも大きいが、やはりアメリカの思惑に反してイラン・イラク戦争の終結に努力したことが偉大だった。長いものに巻かれない、凛々しき政治家魂と、源を視る眼が父上にはあったように思える。長いものとつるんで短いものを苛め続ければ早晩日本もテロの対象になるだろう。対症療法に強硬さを示すよりも、根本的な原因の除去にこそ努めていただきたい。
 まもなく日本は美しい紅葉の季節を迎える。山の紅葉を錦秋とも呼んで讃え、これほどに愛でる国民もいないだろう。芋煮会や紅葉狩り、そしてさまざまなスポーツもその錦秋のなかで楽しまれる。何より美しいのは、こうした錦秋の如き多種類の人の和と混淆だろう。どうか前政権のように人の晩年を細々と区分けして一律に管理するのではなく、錦の如き人の混淆の美しさを実現していただきたい。
 教育基本法に「愛国心」を盛り込む意欲に溢れていらっしゃるようだが、それは錦秋ではなく桜一色に染め上げるようなもの。「義務」として行われる挨拶もボランティアも愛国心も、すでに挨拶でもボランティアでも愛国心でもない。それは戦時中の桜のように怖さを伴う。
 どうか錦秋のように、日本を「やほよろづ」の咲き賑わう本当に美しい国にして、自然な愛国心を喚起していただきたい。

2006/10/10 文藝春秋掲載

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