待たなくていい世の中になってきた。「三分間、待つのだよ」という宣伝もすでに古く、「お待たせしません三十秒」というのまである。
だから人は、待てなくなった。特に携帯電話の普及によって時差も距離も関係なくなってしまったから、相手の状況を想像する間もなく押し入るようにやりとりがなされてしまう。海外であっても、今や夜が明けるまで待てなくなりつつあるのである。
手紙からファックス、電子メールから携帯電話へと、通信機器の利便性があがるにつれて、どんどん人は待てなくなっている。それによって恋愛の在り方もずいぶん変わったのではないかと思う。
手紙の返事を待つのは待ち遠しくも辛い時間だった。しかしそれゆえに人は、相手への思いや期待を膨らませ、さらに信じたり祈ったりするようにもなる。つまり信仰とか祈りとは、待つことによって涵養されるものなのである。
待っても来ない場合だってあるし、そのような経験は誰でも何度かしていることだろう。だから待つということは、これまでの悲しい経験を忘却し、新たに気持ちを奮い立たせることで初めて成り立つ。つまり忘却こそ、待つための新たなエネルギーの源なのである。
ところが最近の機器は着信や送信の記録を残す。切っておいても着信記録だけは残っているから、必ず何らかの対応をしなくてはならない。いわば、自然な忘却というのがあり得ないことになってきたから、待つことも祈ることも不要なシステムになりつつあると云える。
すると、彼女にふられた直後にも、悲しみに打ち沈んで呆然とするのではなく、リストを探り、とりあえずちょっと気に入っている女の子に同じ携帯電話でかけてしまっている。寂しさは深まることなく、指の動きと気軽な会話で解消されてしまうのである。
待たない人々どうしの関係は、信じるという深みを持てないままに広がってゆくような気がする。
また大事なことは忘れず、それほどでもなければ忘れるという優れた人間的能力も、記録の一覧という均一な情報を前にして封印されてしまう。網の目の人間関係は間違いなくできるにしても、その網の目は掬い上げる網ではなく拘束具になってしまうのではないだろうか。
「待」つという文字には「寺」が入っている。本来「寺」という字はある状態を持続させることを意味するから、「待」つとは時がきてもそのままなにかを保っていることだ。
そういえば寺ではお墓や仏像や位牌や庭木なども、すべて何かを待つために存在しているのかもしれない。参られないお墓もあるし、滅多に拝まれない仏像だってある。それでも保たれつづけるところに「時」が発生するのである。
来ないかもしれない相手を待ちつづける。来るかもしれないと期待し、ときには揺れながらも信じて待ったりする。およそ小説に限らず、作品を作るというのもおそらくそういうことだろう。
むろん待ちぼうけが続いて絶望したくなることだってあるに違いないが、それでも我々は待つしかない。書きながら読者の目を待ち、今はイネの穂の順調な成長を待ち、そしてお盆を間近にして先祖たちの還りを待っている。
生きることは、きっと逢ったことのない新たな自分を待つことに違いない。
2007/08/05 福島民報