以前、私はあるエッセイに、入国に際して指紋や写真を要求し、容疑者扱いするような国には今後永久に行かないだろうと書いた。すると編集者が気を利かせ、「これはちょっと過激すぎませんか」と言うから、助言に感謝しつつ「この制度が続くかぎり行かない」と修正したものだった。むろん、当時はアメリカのことだった。
しかし二○○七年の十一月二十日、わが日本も同じ制度を始めてしまった。いったい私はどうしたらいいのだろう。
最近はどうもこのことに限らず、特にいわゆる先進諸国においては何かを「未然に防止しよう」という考え方が目立つ。今回の措置も、テロを未然に防止するため、という趣旨で昨年の五月二十四日に制定された法律に基づくものだ。
しかしテロリストという存在を、世界は大きく誤解してはいないだろうか。彼らは生まれつきテロリストとして生まれ、どこか外国に侵入するのではなく、どこででも、なんらかの事情で、やむを得ず、テロリストに「なる」のである。
貧困、差別、戦争被害など、その原因はむろん複合的で単純ではないだろう。しかし間違いなく云えるのは、疑われたり虐げられるだけで、人はその気に「なる」生き物だということだ。
経験上、賽銭箱を破られた場合でも、鍵を厳重なものに替えたりすると必ずまた破られる。疑われたことを、彼らは瞬時にエネルギーに変換するのだろう。しかしそのまま放っておくと、向こうもその気に「ならない」ようなのである。
また万が一、危険な人物がそこを通ったときのために一つのシステムを作ると、人間の深層心理はその万が一を待ち望むようになる。せっかく何億円だか何十億円もかけて設備を新たにしたのだから、それが何年も無駄になることは耐えられない。ああ、準備しといてよかったと、思いたいのは自然な人情だろう。だから人は、表面上は防止のため、と思っていても、その準備を充実させるほどに、じつは深いところでテロリストを待ち望む体制を作っているのである。
つまり今回日本は、国をあげてテロリストを待ち望み、また養成する体制を整えたということだろう。
だいたい今の世の中は、未然防止のための措置に溢れている。コンビニのレジに置かれたカメラの六割以上は現在未然に警察に直通になっているし、子供たちだって将来の職業を未然に告げさせられる。手術では未然にインフォームド・コンセントを求めるし、葬儀屋は葬儀の設計まで未然にしようとする。むろんそれ以前に、なにが起こってもいいように未然に保険に入っている。そして会議しようと思うと、希望される結論が未然にレジュメになっていたりするのである。
それはほとんど、計画性という範囲を超えている。もっと人間を信用したらどうかと思ってしまう。なにかが起きた、あるいは起きそうになったその時に、みんなで智慧を絞ったらどうかと思うのだが、それでは遅いのだろうか。
泥縄という批判が聞こえてきそうだ。しかしいつか来る泥棒のために用意した縄で人々を縛り、ついには自分が首を吊るようなことにならないだろうか。それが心配である。
すべてを未然に解決しようと思えば、生まれないに越したことはないのだから。
2007/12/09 福島民報