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巻頭リレーエッセイ

信じる “からだ”

 「信」という文字は、もともと神の前で、人との間に約束したことを指した。
“からだ”が変わりつづけ、すべてが変わりつづけていくなかで、変わらない言葉を信じようとしたのは洋の東西を問わない出来事だったのだろう。
 中国では「信」といえば手紙を意味するが、むろんすべての手紙が信じるに足るわけではない。要はどんな言葉も、神の前で交わされることが「信」の前提になる。
 ではいったい、神の前で交わされる言葉とはどんなものなのだろう。
 それにはまず、全身が響き合って言葉が生まれなくてはならない。大きな声 で祝詞(のりと)をとなえるのもそのための作法と云えるだろう。一点の疑いもなく、からだがからっぽの筒のようになって響くことが肝要である。そこを古人は神さまも通ると考えた。遮る邪念や妄想は、祓(はら)い、清める。そうして言葉と神が同じ通路で出逢うと、それは言霊(ことだま)になる。あえて言葉にしなくとも、それは「まこと」と呼ばれた。
 つまり「信」とは、べつに言葉に出そうと出すまいと、そのように融通無碍 (むげ)なる身心の状態を云うのである。
 焦れば冷や汗をかくし、ウソをつけば鼓動も速まり、疑えば凝り固まる。からだは正直だ、というのも、むろん事実だろう。しかし我々は、そのからだのほうを「信じるからだ」に鍛え上げることもできるのではないか。そしておそらく、それが武道だろうと思う。
 神の前、ということを憶(おも)いだせば、そのからだは単に脱力しているだけではない。おそらく畏敬と安心とが綯い交ぜになって、渾沌(こんとん) としたからだに神が宿るのだろう。
 信じるからだは、じつは今生まれたばかりの言葉しか信じてはいない。だから我々は、「まこと」を以(もっ)て語りつづけなくてはならない。
 世の中はどんどん疑うことを勧めるけれど、信じるからだはそう簡単にはやめられないのである。

2008/01/01 月刊武道

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