今日たまたま歯医者さんに出かけていて、なぜかトウモロコシを憶いだした。
歯並びの写真が直接的にトウモロコシに似ていたのだから、「なぜか」というのも当たらないほど飛躍のない話である。
それはともかく、トウモロコシがどうしたのかというと、子供の頃から随分食べ方が変遷したなぁと、ふいに思ったのである。こちらの「ふいに」はほんとに「なぜか」分からないくらい「ふいに」であった。人間の記憶の甦り方というのはじつに不思議である。
子供の頃の私は、たぶんご多分に漏れずトウモロコシの食べ方がヘタであった。周囲の大人たちはたいてい指できれいに弾いたり、あるいは直接歯で食べるにしても、列を乱さぬように上手に食べているのに対し、一方の私は、うまく実の全体をそっくりはずすことができず、それは上の前歯でも下の前歯でも同じことで、どうしても食べ滓としか呼べないような外皮や芯が僅かずつ軸の周囲に残るのであった。
それを恥ずかしいと感じた少年の私は、大人のように残りなく、見事に潔い感じで食べられるようにと、密かに努力したものだった。
やがて二十代になり、子供の羨むような完膚無きまでの食べ方を私はマスターしていたが、あるときこれまた「ふいに」気づいた。この食べ方は美味しくない、と。
お試しいただくとわかると思うが、どうしても本末転倒というか、この食べ方だと残る軸の美しさにこだわるあまり、いったいなんのために食べているのか、わからなくなってくるのである。
あるとき私は、ぞんざいな感じでザクッと囓ってみた。やはり、旨い。数段うまいではないか。
ははぁ、利休が掃きたての庭を恥じ、椿を蹴って葉を落としたのはそういうわけか。荘子の云う「聡明をしりぞけ」とはこれだったのか。いったん不自然になってからでないと戻ってこられない人間の自然……。私は長年使った歯を抜かれながら、そんなことを思ったのである。
2008/03/28 月刊武道