日曜論壇 第26回

金風

 食欲の秋、文化の秋、スポーツの秋、読書の秋。秋には何でもよく似合うわけだが、なにもこれを全部こなして忙しくしろという意味ではない。昔から秋は稔りの季節。なにをやっても深く味わえるときということだろう。
 たいていの田畑はすでに収穫を終え、その喜びを神に捧げる収穫祭などが各地で行なわれている。大地のこの豊饒を生む力を、仏教は地蔵として祀り、神道は稲荷に象徴させてきたが、もともと「秋」という文字じたい、五穀が火のような色に稔ることを意味している。お稲荷さまに狐が祀られるのも、諸説あるが、結局はあのきつね色が稔った五穀の色だったからではないだろうか。
 金色に稔った五穀に吹く秋の風を、金風と呼ぶ。文化も読書もスポーツも、要するにこの稔りの風のなかで楽しむ人間としてのゆとりなのだろう。
 しかしそれほどに大切な食の基本が、今とても危ないことになっている。農薬や殺虫剤ばかりか、工業用にしか使われない薬品まで混入するという現状は、いったいどうしたことだろう。
 すべてはわが身の利益ばかりを優先する、「餓鬼」のなせるわざと思える。中国ばかりでなく、今やあらゆる資本主義国に、金の亡者という餓鬼が跋扈しているに違いない。
 仏教では、餓鬼の供養のために、施餓鬼というお盆の行事を創案した。この原理は、自らの悪行の結果に苦しむ個人にではなく、みんなに好さそうな行為や物を、みんなに振る舞うことだ。人間界という見えないネットワークを信じ、とにかく自分にできる好いことやものを、その網に無作為に投げ出す。それが巡り巡って苦しむ餓鬼をも救い、いくらかは自分にも戻ってくると考えたのである。
 庭の落ち葉を掃きながら、良寛さんの恐ろしいまでの無欲を想う。「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」。施せば、やがて必ず必要なものは廻ってくる。そう信じられたから、あれほどの「その日暮らし」ができたのだろう。
 ある晩、泥棒が入り、なにもない良寛さんの庵から、せめて蒲団を盗もうとするから、寝返りをうって盗みやすくしてあげたという。そして詠んだ句が「盗人の盗りのこしたる窓の月」。
 最近は株の暴落などで、結果的には窓の月しかなくなった人も大勢いるのだろう。しかし良寛さんの「その日暮らし」の窓の月と、当て込んでいた未来が暴落した無一文とでは、まったく意味が違う。「この秋は雨か嵐か知らねども今日の勤めに田草とるなり」(二宮尊徳翁)と、未来を当て込まず、「その日暮らし」してきた人だけに、豊かな金風が吹くのである。
 今日食べる分だけを国内で調達できた日々がなつかしい。

2008/11/02 福島民報

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