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巻頭リレーエッセイ

「もちまえ」と「わたくし」

 生まれたときからもっている命の在り方を「もちまえ」と云う。中国の文字にすれば「性」になるだろうか。動物の多くは、この「もちまえ」だけで死ぬまで生きる。ネコがネズミを獲るのは「もちまえ」ではなく、学習に近いと発達心理学者のプレマックは云うが、それ以外は恋の仕方も爪研ぎもみな「もちまえ」らしい。
 犬やサル、さらにチンパンジーから人間になると、「もちまえ」よりも学習する領域が増えてくる。とりわけチンパンジーや人間は、学習やさまざまな体験によって、「もちまえ」の上に「わたくし」を被せていく。モノゴコロがつき、チエづいてそれは次第に完成されるようだが、これこそ「もちまえ」を抑圧する諸悪の根源だと見抜いたのが釈尊であり、また老子や荘子ではなかっただろうか。
 なぜなら、「わたくし」は常に独自の欲望をもち、思考や判断をするが、それはほとんど常に「もちまえ」の欲求を無視し、ときにはそれを圧迫するからである。
 典型的なのは、自殺願望だろう。死にたいと思っているのは「わたくし」だけなのだ。「もちまえ」は多くの同じ命たちと繋がっており、いつも全体のなかで安らいでいる。
 一度できてしまった「わたくし」はなかなか解けないが、それでもなんとかその輪郭を薄くして、「もちまえ」を出そうと発明されたのが、もしかすると東洋における宗教ではないだろうか。
 「もちまえ」が意外なほど凄い力であることに人々は驚き、神通力と呼んだりもする。おそらく武道でも、「わたくし」が透明なほどに薄まってこそ「もちまえ」の力が発揮できるのではないか。
 「わたくし」から無意識へ、さらに集合的無意識へと深まるほどに、命は制御できないほどの荒々しさも伴ってくる。「もちまえ」とは、我々に宿った自然の別名なのだから当然だろう。「もちまえ」は、だから恐ろしくもある。しかし禅はそれを使いこなすことを「自由」と呼ぶのである。

2009/01/01 月刊武道

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