『荘子』では、「甘」という文字が「うまい」という意味で使われている。お釈迦さまの誕生を祝福したのも「甘い雨」、甘露だった。やはり人間の甘いものに対する欲求は、最も根源的なのだろうと思う。
いつ頃からだろうか。現代人は甘みを、どちらかというと侮蔑的に見るようになった。むろんそこには、高い血糖値や脈拍など、太りすぎに対する異常なほどの用心があるようだが、なんとなく味覚以外の指向性も関係しているような気がする。
つまり人々は、人間関係でも仕事ぶりでも、「甘さ」を嫌ったのである。仕事での「甘チャン」という言い方が典型的だが、人に対してもどちらかといえばビターでクールな在りようを格好いいと考えた。人との境界が堅固で、なかなか本心を見せないようなスタイルに人気があった、と云ってもいいだろう。要するに、甘さに放縦にならないことで、人は立派な社会人になれると信じてきたのである。
これは大袈裟に云えば、中国の道教と儒教の対立のような問題である。私は道教を桃と捉え、儒教を梅で象徴させるのだが、桃はとにかく甘いしそのまま食べたい。しかし一方の梅は、そのままでは毒なのに、干して漬け込んでしかも顔を顰めて食べるのである。
むかし田舎では、梅干しに砂糖をかけて食べたものだった。今や知的に見えないせいか流行らないようだが、これなど絶妙なバランス食ではなかっただろうか。
それは厳しい社会人らしい梅干し的道徳観が、本能的に好む大量の甘さで白く覆われる感動的瞬間だった。
妙な喩えだが、苦虫を噛みつぶしたような道徳的堅物が、水着ギャルに思わず鼻の下を伸ばした風情とでも云えるだろうか。
あ、本当は好きなんでしょ。どうしてそんなに我慢するの? 美味しいでしょ。そうやって責めたてたくなってしまうのである。
じつはかくいう私、最近コーヒーに砂糖を入れて飲むようになった。むろん食後はブラックがいいのだが、空腹でぼんやりするような時には砂糖を入れたほうが美味しいと感じるし、頭もシャキッとする。
思えば脳が栄養として摂取できるのは炭水化物のみ。脂肪やタンパク質は脳内で自前で合成するらしいからそれも当然のことだ。脳が砂糖を迎えて大喜びしているのが感じられる、といえば大袈裟だが、実際とても美味しいのである。
修行道場にいたときなど、じつは典座さんもちゃんと砂糖を使っていた。ところが世の風潮は甘みを非常に蔑んでいたので、「雲水さんの健康を裏づける道場のお食事内容を調査したい」などといってクッキングスクールの面々が来たりすると、砂糖壺や味醂の瓶を隠したものだった。
今思うと、それはあまりに梅干し的対処であったと反省しきり。その調査結果のせいで、どれだけの人々があえて本性を抑圧したかと思うと、砂糖絶ちしてでもお詫びしたい気分なのである。
やはり甘さにもっと素直な世の中がいい。大口を開けて桃を食べる世の中がいい。
人と人とも、あまり格好つけないお付き合いがしたいと思うのである。
甘言に惑わされるなと、識者はおっしゃるかもしれない。警察も「気をつけよう、甘い言葉と夜の道」と述べている。しかし、誰が何と言おうと、甘さに心を開き、正直になることで、人生はいちだんと深みを増すような気がして仕方がない。
ああ、長い旅だった。子供の頃はお供えの葬式饅頭責めで甘い物全般が嫌いになり、道場に行って欠食したためようやく味を覚え、今五十二歳にして初めて甘みに身も心も許したのである。
お釈迦さまも最晩年、馴染んだ街を眺めながら「人生は甘美だ」と呟かれたではないか。さあ、「微糖」などという欺瞞はやめて、思う存分甘みを味わおうではないか。
2009/02/21 あま味(菓匠・榮久堂が発行する冊子)