日曜論壇 第28回

団子と頭痛

 県内だけでなく、けっこう広い地域に云い伝わることだが、お墓参りのときにお供えした団子を食べると頭が痛くならないという。
 僧侶になりたての時は、莫迦な迷信とも思い、またそれなら団子にバファリンやノーシンでも入れたらどうかなどと、よけい莫迦なことを考えたものだが、古人が言葉遊びに込めた意味を知ってからはとても微笑ましい習慣と思えるようになった。
 要するに、親戚一同が集まった法事などの機会に懸案の問題についていろいろ談合しておけば、将来の頭痛の種がなくなる。談合すれば頭痛がなくなる、団子を食べれば頭痛が治る、という言葉遊びなのだ。
 最近では、団子を食べれば頭がよくなる、というデマが飛んでいるようだが、これは信用しないようご注意いただきたい。
 談合坂という地名も残っているが、古来日本では、談合はむろん良いことと認識されていた。
 それぞれの事情を聞いて勘案し、次の仕事はどういうふうに割り振るのか。あるいは最近のそれぞれの状況を斟酌し、今回はどういう分担にするのか、お互いが正直に事情を打ち明けて話し合って決める。そのような事の進め方に、なんの問題もあろうはずはなかった。
 本来の日本的な談合は、仕事を上手に分配する共益性のための仕組みであり、けっして利益を集中させるシステムではなかったのである。
 しかしそういうやり方をされると、外国からやってきた新参者は参入しようがない。そこでお互いの事情など勘案せず、とにかく廉く見積もってきた会社に仕事をあげるシステムを採ってはどうか。それが平等ではないか。当の外国はそんな手前勝手で無茶な提案をしてきた。ところがなぜか、そんな無茶な話が通ってしまったのである。
 入札で最安値のところが選ばれるとは限らないものの、このようなシステムになってしまうと、基本的に選ぶ側は何も考える必要がなくなってしまった。ただ数字を比べればいい。
 これは人を選ぶ場合にも云えることで、試験での成績はあっちのほうが僅かに上だが、私は私の責任においてこいつのほうを選ぶ、ということがなくなってしまった。要するに、数字だけで決めればいいのだから、人を視る目も選ぶ側の責任も不要ではないか。
 数字がいったいどれほどの内容を示しているというのか。
 強いところが無理して出した数字に、弱いところが勝てる可能性は限りなく小さい。平等というコートを纏った弱肉強食の悪魔的な経済原理が、日本の共益的な共同体を壊しつづけている。
 談合できなければ勝っても負けても頭痛は治まらないけれど、いずれにしても旧き良き日本の談合は忘却の彼方である。

2009/03/11 福島民報掲載

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