ある和尚さんがこんなことをおっしゃっていた。若いときはいろいろ主張もあるだろうし、仏教や禅の指導もしたいかもしれない。信念をもち、それを世に問うのも、むろん悪いことじゃない。しかし年をとったらなァ、坊さんは三つの言葉で済むんじゃ。
「和尚さん、これこれこうでしたよ」と云われれば、まずは「ああ、そうかね」。
「だから私、嬉しくて」と云われれば「よかったなァ」。「いや、それが悲しくて」と云われれば「そりゃあ困ったねェ」。
「ああ、そうかね」で寄り添い、あとは「よかったなァ」「困ったねェ」と心からの共感を示せれば、それ以上の言葉は要らんのじゃよ。
べつに私に向けて話されたことではなかったのだが、ああ、なんと凄い言葉かと思いつつ私は聞いた。そういえば映画『男はつらいよ』に出てくる笠智衆の御前さまもそうではないか。あるいは、誤解を怖れずに申し上げれば、昭和天皇や今上天皇のお言葉の出されかたもそうではないだろうか。
ギリギリに切り詰めた普通の言葉だけが、じつに心を込めて発せられる。いや、言葉以前の在りように、すでに心が込められていると云うべきなのかもしれない。
それにしても、この国の「翁」にも通じるそんな在り方が、今後の日本ではたして通用するのだろうか。多弁や美辞が好まれ、押し出し型の表現ばかりが目指されるなら、晩年のそんな在り方は衰えとしか見えないに違いない。痴呆が疑われ、要介護度が決められ、しかるべき施設に押し込められはしないだろうか。
たしかに言葉は、大いに学ぶべき大切なツールだとは思う。
しかし、ワンとしか鳴けない犬があれほど表情豊かなのは、ワンとしか鳴けないからではないのだろうか。
言葉を弄しながらも、そんなことを思うこの頃なのである。
2009/04/01 月刊武道