日曜論壇 第29回

生物多様性と多文化共生

 このところ環境問題のほうでは、生物多様性ということがよく言われる。より多くの生物が共生できる環境こそ素晴らしいという考え方に異論はないのだが、この場合、どういうわけか帰化植物や外国からやってきた虫などは嫌われる傾向にある。セイタカアワダチソウや西洋タンポポなどを排除し、日本の古来種を復活させるべきだと、なぜか多様性の観点から説く人々が多いのである。
 たいてい、年間何十万種類の生物が絶滅している、などと危機感を煽るのだが、その計算方法を聞くと呆れる。一本の木におよそ何種類の生物が棲んでいるかをまず類推し、切り倒された木の本数を単純に掛けた、などというのである。
 もともと梅や桃や多くの野菜だって外来種であることを思えば、大切にすべき古来種というのは何なのか、どこで線引きすべきなのかは分からなくなる。別な生物学者は、今ほど生物が多様な時代は地球の歴史上皆無だと断言している。もしそうだとすると、近頃謳われている生物多様性というのは、いったいどういう意味なのだろう。
 さて国際交流の観点からは、ずいぶんまえから多文化共生が謳われている。これはもっと分かりやすい。たとえば福島県の場合でも、現在登録されている外国人居住者は一万三千人を超えている。これらの人々が、それぞれの故郷の国の文化を活かしつつ暮らし、しかもこちらの生活にも馴染んでほしいということだろう。
 ところでこの両者を並べて考えてみると、もしかしたらこれは数の問題ではないかと思えてくる。一万三千人の外国人といっても、約二百五万人の県民のなかでのことだから、比率的には0・5%程度だ。
 そのくらいの数や比率なら、余裕をもって大歓迎するけれど、これが西洋タンポポやセイタカアワダチソウのように日本種を凌駕して繁殖してくると許せなくなる。しかし許せないとはいっても、今さら国粋主義的な表現はできないから、「生物多様性」と表現されているのではないか。ある意味でこれは、グローバリズムというあからさまな均一化の動きに対して自然に発生したナショナリズムなのではないだろうか。
 ともあれ、自然は今や人為も含みつつ流転しつつある。昔から、日本人は自然を「手入れ」しながらそれと上手につきあってきたが、手入れしすぎると「人工」になって一気に面白みがなくなってしまう。
 どうやら今の大きな問題は、自然と人工の兼ね合い、そしてグローバリズムとナショナリズムの併存の仕方のように思える。
 忘れていけないのは、この国がもともと朝鮮半島から流入した数十万人以上の渡来人をベースに作られたということだ。「無我」と云えるほどの受容力こそ、この国の自然ではないか。

2009/05/24 福島民報掲載

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