このところ墓地内に建設中の永代供養墓のことでいろんなことを考える。大勢の人々がそれぞれの立場から協力してくださり、それがとてもありがたいのだが、時にはその立場の違いで意見の違いが出てくる。今問題になっているのは、屋根の上まで伸びてきている桜の大きな枝である。枝先が少し枯れているのだが将来的なことも考え、どこで伐ろうかと議論が盛んなのである。
ほとんどボランティア的な奉仕労働をしてくれている板金の職人さんにすれば、今後屋根の上に枝葉を落としそうなその太い枝は、付け根からさっぱり伐ってほしい。それは屋根方からすれば当然だろう。
しかし私としては、大正五年に檀家さんによって植えられたその桜の、枯れた部分は伐っても生きてる部分はできるかぎり残してほしい。いずれは枯れるとしても、枯れるまでは大事にすべきだろうし、大袈裟にいえば、人生だってそういうものじゃないか。それに、仏教的には木を伐る理由はなにもないからである。
いつか病気になり、枯れて死んでご迷惑をかけるなら今のうちに、と思うなら、自殺も殺人もそれなりに合理化されることになる。切り取られることに怯えれば、おちおち入院もしていられないではないか。
しかしこうした意見の違いは、立場の違いから生じていることを見落としてはならない。考えあぐね、他の人に意見を求めても、正しい答えはないのだろうと思う。
たとえば樹医さんに訊けば、たぶん私に近い意見だろうが、剪定慣れした植木屋さんだともう少し大胆に伐るだろう。大工さんも石屋さんもそれぞれの仕事歴や人生に即した意見になるのは当然である。
中国の古典『荘子』には、サルとドジョウと人間の住む場所を比べ、どれが一番よい住まいか、という問いかけがある。サルの住む木の上では危険だし、ドジョウの住む湿地では人間は病気になってしまう。しかしだからといって、人間が住む場所が正しい住処というわけではないというのだ。
桜の枝をどこから伐ればいいのか、これもけっして万人にとって正しい答えがあるわけではない。それぞれがなんとか納得できるギリギリのラインを、みんなで導くしかないのだと思う。
先日、虫博士とも云うべき養老孟司先生がおいでになり、境内を一巡されて「お寺は虫が多くていいですね」とおっしゃった。これなども、虫退治に忙しい人々には思いもよらぬご意見である。
万人に正しい答えなどけっしてなく、所詮は立場立場による欲求、欲望の鬩ぎ合いだと思っておけば間違いない。しかもお寺での決断は、和合のうちになされなければならない。どんな結論でも文句を言わない桜が、やはり一番尊い。
2009/06/21 福島民報