この本のタイトルを見れば、たいていの禅僧は振り向くだろう。「精神の自由」とは、禅の中心テーマでもあるからだ。そして本を手にとって目次を見ると、簡潔な章立てだけが書かれている。曰く「宗教なしですませられるだろうか」「神は実在するのだろうか」「無神論者のための精神性とはどのようなものか」。じつにシンプルにこの本の内容が告げられている。そう、この本は、無神論者である著者が、誇り高き無神論者としての精神性を追求したもので、人間の外部に拝む対象をもたない禅とどこかで通底している。
なるほど、世界は今、外側の神を礼拝する人々の宗教的な狂信や原理主義による殺戮に満ちている。また宗教組織の腐敗による犯罪の例にも事欠かない。しかし著者のスポンヴィル氏が無神論を標榜するのは、そんな現状を批判するためだけではない。
人間としての自由な生き方を真摯に哲学した結果、著者は十八歳のとき無神論になった。いわば筋金入りの無神論者なのである。
日本の特異な宗教事情から考えれば、無神論者になるのにどうしてそんな筋金が必要なのか、理解しにくいかもしれない。気軽に無神論だと言いながら、仏壇にはお線香をあげ、神社では柏手をうつ民族には、たぶんこれほどのエネルギーをこの問題に注ぐ理由は思いつかないだろう。
しかし唯一絶対の神とは、ユダヤ・キリスト教圏に生きるある種の人々にとっては、信じられないほど脅迫的な重圧なのである。
たまたま私は、つい最近フランスの仏教学者と対談する機会があった。彼も神の位格(ペルソナ)の問題で少年期から悩み、とうとう仏教者になって『法華経』の仏語訳まで成し遂げた。仏教者になることで彼は神の重圧からすんなり逃れたのだが、スポンヴィル氏は別な道を選んだ。仏教や道教、あるいはその両者の綜合としての禅にはとりわけ親和性を感じながらも、キリスト教圏の歴史と文化を背負って無神論者として生きてきたのである。
その彼が、神の実在について考察した第二章が私には特に面白かったが、それは読んでのお楽しみにしておこう。
ただ禅との絡みで特に一点だけ申し上げれば、彼が熱意を込めて語るのは結局「神が実在するかどうか」はわからない、ということであり、その「わからなさ」から一歩進め、「いないと信じる」のが無神論者であり、「いると信じる」のがいわゆる信者ということになる。
ちなみに禅は「わからない」ことはそのまま放っておくわけだが、そうであるなら無神論者のほうが何かを信じている分だけ情熱的なのかもしれない。
スポンヴィル氏は、明晰な論理によって宗教が与える希望や信仰を丁寧に拒否していく。そして無神論者の生き方の中心に、宗教や神とは関係ない「誠実さ」と「共同性」を据える。それが充分に行なわれさえすれば、我々にさまざまな弊害をもたらす宗教はむしろなくとも済むというのである。
ここで言う宗教とは、当然ユダヤ・キリスト教型の、いわゆる一神教であることは言うまでもない。
しかしその意味では無神論にちかい日本の仏教徒も、同じように宗教ゆえの思考停止に陥り、スポンヴィル氏の言う「信仰の囚人」になっているのではないだろうか。
氏は、宗教があまりにも楽観的だと言う。なぜなら我々が根源的に欲望する「不死」「親しかった死者との再会」「正義と平和の最終的な勝利」そして「愛されること」を、いともたやすく保証してくれるではないか。著者はそれが「あまりに話ができすぎていて信じがたい」と言う。フロイトの言う「欲望の表現」ではないかと訝るのである。
私は仏教徒ではあるが、宗教の一端に関わる者としてそれは自問しなくてはならない問題である。「わからなさ」をそのまま放置する勇気がもてず、フロイトの言う「人間の欲望から派生した思いこみ」に閉じこもってしまうのは誰にでも起こり得ることだ。もしも宗教がそうだとするなら、それはひどく不自由なものになってしまう。
もしや私も無神論者なのかと思うほど、私は氏の多くの主張に賛同するが、最後に申し上げておきたいのは、彼が二十五、六歳のときにフランス北部の森で体験したことは、明らかに禅的な見性(さとり)に酷似しているということだ。彼は「内入」「脱自」あるいは「ことばなき真理」「自我なき意識」などと表現しているが、それを宗教体験と認識する人々も世の中にはいることを諒解しておいていただきたい。
無神論者のスポンヴィル氏がじつは宗教的なのか、禅があまりにも無神論的なのか、それはここでは問わないでおこう。とにかく今の日本人には、思考停止に陥った問題について考えるために、信仰のある人にもない人にも強くお勧めしたい一書である。
2009/12/16 季刊scripta